確かに寒くなってきたので、とうとうダウンジャケットを出してきました。それを着て出かけた本日の映画は、「ブリングリング」は渋谷シネクイント。ソフィア・コッポラの映画は初めて観ます。


裕福な家庭に育ったマークは、前の学校ではうまく行かず、一年の「自主学習」の後に、新しい学校へと入学する。その学校でも「イケてない」とバカにされるが、そこでレイチェルという女の子に声をかけてもらい一緒に遊びに行くことになる。二人は好きなファッションやブランドについて話が合い、仲良くなる。
ナイトクラブに出かけたり、夜遊び歩くうちに仲間も増えていく。ある日、パリス・ヒルトンがベガスでパーティーをすると知ったマークとレベッカは、パリスの自宅周辺を地図検索サービスなどで調べて、彼女の家に侵入する。侵入は意外にあっさりと成功し、そのついでに彼らは「戦利品」を持って帰ってくる。
成功は次の成功を要求する。彼らの「侵入」は、徐々に他のセレブ邸にも広がっていく。彼らは、やがて「ブリングリング」とマスコミによって名づけられ、最後は「セレブ邸を狙うティーンエイジャーの窃盗犯グループの逮捕」という形で幕を降ろす……


何が変かと言えば、これがうまく説明できないのですが。ソフィア・コッポラは、レイチェルやニッキー(エマ・ワトソン)たちの「馬鹿げた昂揚」を淡々と撮っていて、むしろ「普通」というべきでしょう。この映画は実際にあった出来事に基づいたものでもあり、過剰になりすぎないようにとの配慮もあるのかもしれません。
では何が変なのか。思い当たるところを一つ言えば、この映画徹底的に「今」だけを書いて、「過去」のことも「未来」のことにも、全く触れようとしないということでしょうか。スマートフォンで写真をとり続け、始終フェイスブックの更新に熱をあげる姿。「今はそうなんだろう」と思います。
窃盗というおおそれたことをしながら、毎日家に帰って自分のベットで眠る「普通のティーンエイジャー」である主人公たち。それを観ながら、私は良いとも悪いともなんとも思わず、「今はそうなんだろうな」と思っていました。そして、画面からもそういう空気しか感じませんでした。
監督たるソフィア・コッポラのため息すら。無思慮を通り越して、凄惨と呼んで良いような彼らを、真っ直ぐ描くことを選択しているのだと思います。「その結果浮かび出るものがある」というようなことすらありません。ただただ、「今はそうなんだ」と息を殺しながら撮っている。
そういう風に感じられるのが、「変といえば変」でした。ドキュメンタリーではないので、ソフィア・コッポラの言いたいこと、言えること、沢山あると思います。過去を探ることも、未来を付け足すことも当然できたでしょう。それなのにただ、「息を殺す」ことを選択したのは、
一体なんでなんだろうな、と帰りの電車で考えていました。正直なところ、この「ブリングリング」たちの気持ちは私には理解しがたいです。私は彼らが欲しいようなものが、全く欲しいと思えず、もはやティーンですらなく、彼らの「今」に完全においていかれています。
インターネットという黒い闇に、彼らはほとんど食い尽くされているように私には見えます。その姿を観れば、怒りも湧かなければ、ざまあみろとも思いません。同情もなければ、反発心もなく、ただただ途方にくれるばかりです。
ソフィア・コッポラは42歳。私の三つ上です。彼らのことを知り、映画にしようと思った時にどう考えたのでしょうかね。案外、私と同じように途方にくれたのでしょうか。だとすると、大いに納得の行くところなのですけれど。