森田英二油絵展、より

画廊から 洲之内徹
森田君については桜井浜江先生からとてもいい原稿を戴いたので、私にはもう何も言うことはない。森田君のことをこんなふうに言っていただいて、私は、わがことのようにうれしかった。
森田君とはもう十年近いつきあいになる。十年前のある晩私がビールを一杯飲んだあと、目黒駅の近くの喫茶店へ入って行くと、そこで森田君が個展をやっていた。とは言っても本人はいないで、絵だけが、それも額縁もないキャンパスのままで、壁の釘にひっかけて、並べてあった。
その絵が実に面白かった。私はすこしアルコールが入ると絵がよく見えるという癖があるので、これはビールのせいかなと思って、何度も頭を振って見直したが、やっぱりいい絵だった。それで四十号と十号と、絵を二枚買った。それが、森田君とのつきあいの始まりである。
以後、十年間に、森田君の絵は、モチーフも画風も何度も変わったが、そのどの時期のものも、私には非常にいいと思われると同時に、これでは絵になっていないんじゃないかと思われるようなところがあって、私はいつも初めと同じように、彼の作品の前で頭を振ってみるのだった。十年間、私は彼の絵の前で、頭を振り続けてきたようなものである。
だが結局は、彼の仕事のふしぎな魅力に、私はいつも負けてしまう。彼はやっぱりいいし、素晴らしいと思う。彼の絵が絵になっていないような気がするのは、彼が絵の約束ごとをすべて無視してしまうからだろう。それがいいとも、それでいいともいうわけではないが、しかし、それよりもっとだいじなもの、それがなければ絵ではないという肝腎なものが絵にはあるはずだ。そのことを、森田君の仕事はいつも私に思い出させる。そして、そういう仕事は、いまの私たちのまわりにはほんとうに少い。

「森田英二油絵展」(現代画廊) 1972年6月5日(月)→6月17日(土)
パンフレットは一枚刷三折。表紙には、モノクロ図版「モンマルトルの酒場」。
その他、モノクロ図版7図掲載。
より、洲之内徹の一文。


いかにも洲之内徹らしい一文で、思わず「いつものやつですか」と言いたくなるのだが、一方で語られている実作品を観たくなる。やはり魅力がある。

負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く

☆昇級者喜びの声 B級1組→A級 七段・木村一基
 嬉しい昇級


棋士になって10年目。節目となる年にこういう結果を出せて本当に良かった。
以前昇級した時はすべて自力だった。自分が勝ちさえすればいんだと強く言い聞かせ、星勘定などしなかった。
ところが自信のなさは不安を生む。どうしても昇級したい、と過剰に思い込んでしまい、今回は集中できていない。悪い状態のまま臨むことになった。
昇級をかけた一局、野月七段戦はとてもゆっくりした進行になった。
自分が勝てばいい。だから他人の将棋は気にしない、見るまい。そう決めていたがどうしても気になる。結局、みんな見た。鈴木八段も、行方七段も、芳しくないようだった。肝心の自分の将棋は、11時過ぎまで形勢不明だった。
僕は順位戦が大好きだ。日付けが変わる頃から気力がまさった方が必ず勝つ。戦っているんだな、と実感できるからだ。
ふと席をはずしたら慣れていない取材の人が置いたのだろう、トイレの前に棋譜があった。見たら、高橋九段の勝ちと書いてあった。
あら、上がっちゃった。うれしいなあ。途端に乱調になり、そして必敗になった。
今度は不安になってきた。あの棋譜が去年のだったらどうしよう。何かの錯覚で、実は鈴木勝ちだったらどうしよう。
思い返せばアホとしか言いようがないが、本当に心配した。
そんな中で打った金。今から思い返しても具合の悪くなる手だがまさに気力だけ。自分らしい、とも思った。
負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く、抵抗がある。でも、その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちるかのように、転落していくんだろう。
レベルが高く、残留すら難しいクラスで戦うことができる。この気力を維持して頑張りたい。
将棋世界第71巻第5号 2007年5月号 82頁)



解説を加えておくと、書かれている対局は、平成19年3月16日第65期順位戦最終局、野月浩貴七段との対局。
「負けと知りつつ〜転落していくんだろう。」のくだりは、梅田望夫「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」で取り上げられて、有名になった。
確かに取り上げたくなるような素晴らしい言葉で、この本もとても面白い素敵な本なのだけれど、
この言葉を取り上げているどこもかしこもこの本の孫引きばかりで、文脈が分からずとてつもなくイライラしていた。
腹がたちすぎたので、本を取り寄せてスッキリ。有名になった言葉だけではなく、全部を読んでも豊かで人柄がにじむ素晴らしい文章。表面だけすくってドヤ顔してみせることが、いかに無残で惨めで害悪に近いことかが分かると思う。


ちなみに、この対局は185手木村一基七段の勝ちで終わっている。

・名前の出る仕事以外はするべきではない話。

今、東急の東横店南館で催事をやっていて(宣伝)、3日目が終わり、これから4日目が始まろうとしています。売り上げに関してはいつもの低空飛行で、初日から反省し、「毎年同じこと言ってるね」と指摘され、もうほんとにそうだなと思う。
「金額が気にならない」というのは、私の古本屋としての欠点の最たるもので、職業人としてこれは本当に良くない。と思うものの、自分で本を書くわけでもなく、版元を利用するわけでもなく、ただ人様から個人的に分けてもらった本に定価と違う値札を張って「プロでござい」とは何事だ。
と、反射的に言いそうになります。まぁこれは冗談なのだけれど、口に出して言うと冗談と取ってもらえないのが、私の残念な人望。これは身から出た錆ですね。私は、古本屋の店員さんでもあったことがあるので、「プロの本屋」と「プロ風の本屋」の違いには目が利くんだけどな。
と古本屋の悪口ばかり言って終わるのものなんなので、なぜ私が安定した店員生活を捨てて、独立した古本屋になったかを書いておきましょうか。ある日ふと分かったのは、「自分の名前でする仕事以外はするべきではないな」ということでした。


店員さん時代の私は、それはもうのうのうと、ゆったりと、スピードは無いながらも丁寧に、巡る時の管理人さんであるかのように、仕事をする人間でした。そんな生活に疑問を持つこともなく、いつもニコニコしながら、はいはいと毎日を過ごしていたのでした。
ある時、ふと学生時代の友人と一緒に食事をすることになりました。もう30歳になろうとしていた時ですから、二人とももう大人といえば大人です。そこで、その友人は一生懸命自分の今している仕事の話をしてくれました。何かのイベントがあるとかいう話だったと思います。
彼は、その裏方として一生懸命準備に奔走し、機材を手配し、イベントの内容を精査し、休みの日にも出社してその仕事が上手く行くよう、力を尽くしているということでした。うんうん、そのイベントが出来るのは本当に君の努力のおかげだね、と私は思いました。
そして私はつい聞いてしまったのです。彼ほどの努力をしたのだから、当然だと思ってしまったのです。「それで、そのイベントでは君の名前はどこにクレジットされるんだい?」。彼の顔を急に暗くなりました。裏方仕事はどうとか、会社勤めはどうとか。
あんなに一生懸命話してくれていた彼の顔色を変えてしまったのは私だ。と、その瞬間に思いました。彼を傷つけてしまったのだと。笑って「宮仕えの人間にそんな栄誉はないよ」と言える余裕が彼にはありませんでした。
そして私は、そういった「名前ごとき」が人を傷つけるのはよくない、と思ったのです。幸いなことに、古本屋は自分の顔と名前でやる仕事でした。態度はでかいが、力は小さく、儲かる金額はもっと小さいですが、少なくとも「名前」で傷つくことは無い仕事です。
その時の彼に私は、「もういい年なんだから、自分の名前の出ない仕事をするのはしんどくない?」とか言ってしまったような気がします。彼は優しいので、「そうかもね」とか答えてくれたと思います。そして、自分の言った言葉は自分の方にも返ってくるのです。
私は古本屋さんの店員で、店主のでかい態度と小さな権力とそこからもたらされる給料で生きているのだ。その事実は、彼にそんなことを言う資格がないことを意味しています。吐いた唾を飲み込むことはできないように、私は自分の言葉をじっと見つめていました。
そして、しばらくして私は独立して古本屋になりました。その時にまず思ったのは、「あぁこれで自分で責任が取れるな」ということでした。そして、実際には色んな人に迷惑をかけまくって行くわけなんですが、即売会にも参加するようになり、
自分の本屋の屋号(これは自分の名前と同価値です)が、ぽつぽつと出るようになりました。「悪い時も、良くない時も、しんどい時も、泣きたい時も、(いい時がねーな)、いつか訪れるいい時も自分のおかげだ」と、言えます。あの時の言葉に少しは責任を取れたのでしょうかね。


こう書いていると、お勤めをしている方に否定的なことを書いているように思えて来ましたが全然そんなことはなく、私は「それが出来るならば」、出来れば大きい会社に勤めて、安定した生活と大きな仕事をし、社会に貢献する方が良いと考えています。
ただ私はそれにはみ出してしまったから、「本の管理人さん」になってしまったわけで、私にはその選択肢が無かったのだということで、その辺には目をつぶっていただければと思います。
最後に、「古本屋さんとしての能力に疑問があるお前なのに、古本屋さんの店員としての能力は一体どうなんだ」という部分に関しては、まぁ、追い出されたというのも、確かに、ある、か、も。思いのほか長くなってしまった

最近では、「ドン・ジョン」→「ロボコップ」→「ダラス・バイヤーズ・クラブ」→「アナと雪の女王」という風に観ついでいました。「ダラス・バイヤーズ・クラブ」と「アナと雪の女王」はまとめて。二つとも素晴らしい映画で、太陽を一度に二つ観たような気分になりました。
この二つを同じ日に観てしまうなんて、もったいないような、贅沢なような、なんというかもう大興奮。私の中で、今年を代表する映画となるのは間違いない二つ。こういうこともあるんだなと、なんだかふわふわしています。うん、大変に素晴らしい。





最近どうやらハリウッド大作系爆発映画に食傷してきたのか、この映画館を訪ねることが増えてきたような気がします。「ダラス・バイヤーズ・クラブ」は、ヒューマントラストシネマ渋谷
主人公のロンは、テキサスのカウボーイ。つまり、「男の中の男」である。そんな彼が、病院で医者からHIV陽性であることを告げられる。当時、エイズは「同性愛者しかかからない病気」という風潮であった。「男の中の男である自分がなぜ?」と調べていく内に、自分が感染したことを納得せざるをえなくなる。
余命宣告は「後30日」。怒り、苦しみ抜いた後、ロンは生きたいと願った。治療薬を陰で買い集めるが、効果は芳しくない。そして、すがるような気持ちで訪れたメキシコで、彼はアメリカでは未承認だが効果的な薬と出会い、一命を取り留める。さらに気付く。「この薬を持ち込めば儲かりそうだな」
アメリカに戻ったロンは、商売を開始する。エイズにかかり、薬を手にいれられない人間は沢山いる。そういった人間から入会金を取り、薬を配る会員制システムだ。国境を越えて薬を集め、法律を乗り越えて行列する会員に手渡す。名前は「ダラス・バイヤーズ・クラブ」。
まずなにより、主演のマシュー・マコノヒーが素晴らしかったです。余命30日を宣告されるに相応しく、ガリガリに痩せているのですが、「戦い、立ち向かって行くために必要な最低限の力」をギリギリ残すまでに研ぎ澄まされているという感じ。飲む・打つ・買うの三冠王の荒くれ者が、包容力のある理知的な人間に変わる姿を見事に演じています。
実話をベースとするストーリー見事、どこまでも緊張感を切らさない演出も見事の一言でした。テキサスは暑く、メキシコも暑く、病気と権力と現実と戦う日々もただただ熱く、エピローグで触れられるその死の瞬間まで続いたであろう灼熱の日々を思うと、胸の内を強く握られたようになります。
最初男らしく生きるのに必死で、次に病気に立ち向かうのに必死で、最後はなすべきことをなすのに必死の人生を描いています。そのことは、度合いの違いはあるにしろ、どこかで自分たちの人生にもあてはまることのように思えます。始ってしまえば、降りることのできない列車、外れることのできないレールの上を走っている。 
それは、言うなれば「仕方のないこと」で、こんな私でも少しだけ当てはまります。だから、私は、映画の登場人物に感情移入するタイプの視聴者ではないのですが、ロンの「死なないのに必死すぎて 生きている実感がない」というセリフに、共感せざるをえません。そして、この映画を観て共感しない人がいるでしょうか。

これは雑談となりますが、「ダラス・バイヤーズ・クラブ」は「ウルフ・オブ・ウォールストリート」と対になる映画ですね。片や余命30日を宣告されるエイズのカウボーイ。片や「ウルフ」と呼ばれた伝説的なウォール街イカサマ師。全く違う立場の二人ですが、アウトローで、脇目も振らず走りぬいた点で共通しています。
「国や政府などを信用していたら、何一つ間に合わなかった(い)」ということは、そこだけ抜き出してもとても教訓的ですし、その人生を見てもとてつもなく眩しい。こういった映画が続けて出てくるということは、アメリカという国に、「そういう空気」みたいなものがあるんでしょうか。閉塞感? 憧れ? 

先週の映画は悩んだ結果、タイ・日シリアルキラー交流「キラーズ」を。そして今週は、「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。最近の映画はPART2とかそういう「続編的」な表現を避ける傾向がありますよね。この映画の場合は、原題は「Kick-Ass2」。
続編ということで、「キックアス」を予習して出かけました。1は本当に素晴らしい映画で、思わず感動しました。可笑しくて、変で、血まみれで、爆発。こんな映画を好きにならないわけがないと、私は思ったのですがいかがか。そしてなにより、「クロエ・グレース・モレッツは正義」。
こんな素晴らしい1ですが、私の考える「キックアスらしさ」というものがあります。一つ、人は急に「素晴らしいもの」になどならない。二つ、やったらやり返される。そして三つ目は、「正義」と「悪」はどこか同じ顔をしている。コミカルの底を流れる「らしさ」だと思います。
それさえ押さえてあれば、2は私が好きな映画に決まっているわけです。そして実際はといえば、観終わってホッと胸をなでおろしました。わたくし。
スクリーンの中のみんなは、3年間の年を経て順調に年を重ね、かなり大人びた感じに。ただ、格好が同じなのがむしろ笑えました(親友の一人が変わってたの気付かなかったよ)。キックアスの彼は、彼女と別れてしまうくだりが。時の流れは早いよね、仕方ないよ。うん。
ストーリーは、前作のわりとすぐ後の物語として描かれていて、スーパーヒーローから普通の高校生に戻らなければならないヒットガールと、「自分は本物のヒーローではなかった」と一度はヒーローを引退していたキックアスが再びコスチュームを身につけ町に戻る、ところから。
その後の展開は…… まぁ、1さえ観ていれば説明不要です。いつも「なんか微妙だなー」と思う邦題も、これはあぁなるほどとなりました。そしてやはり、「クロエ・グレース・モレッツは正義」。
ずいぶん大人っぽくなって、あのくしゃくしゃっとした、子どもっぽい笑い顔が観られないのは残念ですが、映画はとても良かったですよ。記憶に残る二本になりました。

なんだか忙しがっていて、なにかと手を抜きがち。何も言われなくても、後ろめたいのは自分の心。最近では、「大脱出」「ウルフ・オブ・ウォールストリート」「アメリカン・ハッスル」と観継いでいました。
「ウルフ・オブ・ウォールストリート」と「アメリカン・ハッスル」に関しては、何か書きたいような気がしていたのですが、タイミングを外してしまった感じ。二つともとても良かったです。私の観る限りでは、水準を遥かに越えた映画だったと思います。
ところで、本日の映画は「スノーピアサー」は渋谷シネパレス。監督はボン・ジュノ。あぁ、「殺人の追憶」の人ねー、とは思ったものの未見です。ストーリーはwikipediaにあったものが、簡潔にして要を極めているので引き映しさせてもらいます。
2031年地球温暖化を食い止めるべく散布された化学薬品によって、全ての陸地が雪と氷に覆われてしまった世界。わずかに生き残った人類は、永久機関によって動き続ける列車「スノーピアサー」の中で暮らしていた。だがそこでは、先頭車両に住む富裕層が全てを支配し、後部車両に住む貧困層は奴隷同然の扱いを受けていた。
そんな中、貧困層に生まれた男、カーティスは自分達を苦しめる理不尽な支配に立ち向かうべく、仲間と共に反乱を企てる。』 エンディングのスタッフロールを観ながら、「荒いけど、面白い」と書こうか「面白いけど、荒い」と書こうかと迷っていました。この監督には、うまく説明できないのですが独特の感覚があって、そこが良い。
ただ、どうも全体的に「荒い」と感じさせるところがあって、観ているとそこがどうも引っかかってしまって集中できない。特にエンディングは「マジでこれで終わるつもりなのか」と思わず笑ってしまう感じでした。だから映画としては魅力的なのに、どうもそれに集中できないまま終わってしまいました。
「ハリウッド的」な「見事に調整済み」というところから外れている、と書けば事足りるのかな? 好き、か、嫌い、かで言えば「もちろん好き」なんですが。色々意欲的な作品であると感じたので、「面白いけど、荒い」と書いて次回作を楽しみにすることにしましょうか。

インシディアス 第二章」
私は、音や映像で観客を驚かす「ショッカー映画」と呼ばれるものが好きで、映画館でかかっていればなるべく観に行くようにしています。なぜならこのジャンル、個人的には絶滅危惧種という印象で、現在では「ストーリー性がある」とか、なんとなく「意味がある」映画が求められているのかなと思っています。そういう意味で、「ショッカー」はこけおどし的というか、そういう捉えられ方をされがちなのでは、と理解しています。
でもさ、娯楽ってそういうもんかね、と思わなくも無い。日曜日の夜に二時間の楽しみを求めて出かけていく私にとっては、強度の高い構成を持っている複雑な物語を堪能したり、深く人生の意味を問うてもらってももちろん構わないのですが、それと同じくらい、バカバカしいほどに荒唐無稽な世界で振り回してもらっても、同じくらい素晴らしい時間なのですが。というわけで、「ジャーン!」とでかい音を鳴らしてビクッとしてみたり、一瞬の光で思わず目を見開いてしまったりでも、楽しければそれでいい。
インシディアス」は、そういう感じのどちらかといえば「古き良きホラー」の趣がある映画だったと記憶しています。ポップコーン片手に、コーラが似合う感じ。「第二章」は、前回で消化不良だった部分を反芻してもう一回咀嚼して飲み込みなおすという、こうやって字で書くとちょっとオェッとなる感じの構成となっていました。
内容といえば、もうほんと「パート2だな」としか言いようが無く。もうすがすがしいほどです。奥様は相変わらず美人。旦那さんは、室伏広治っぽいどこか印象が薄いいかにもアメリカ人。その家族が、前回と全く同じように心霊現象に苦しむという分かりやすさ。ホラーなのに、安心して見られるという素敵。
ところで、ポスターには「完結篇」とうたっているのですが、またエンディング後に引きがあるんですけど。また2年とか3年後に、同じ文章を書くことになるような気がしてなりません。まぁ、今度は3Dなのかもしれませんが。