負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く

☆昇級者喜びの声 B級1組→A級 七段・木村一基
 嬉しい昇級


棋士になって10年目。節目となる年にこういう結果を出せて本当に良かった。
以前昇級した時はすべて自力だった。自分が勝ちさえすればいんだと強く言い聞かせ、星勘定などしなかった。
ところが自信のなさは不安を生む。どうしても昇級したい、と過剰に思い込んでしまい、今回は集中できていない。悪い状態のまま臨むことになった。
昇級をかけた一局、野月七段戦はとてもゆっくりした進行になった。
自分が勝てばいい。だから他人の将棋は気にしない、見るまい。そう決めていたがどうしても気になる。結局、みんな見た。鈴木八段も、行方七段も、芳しくないようだった。肝心の自分の将棋は、11時過ぎまで形勢不明だった。
僕は順位戦が大好きだ。日付けが変わる頃から気力がまさった方が必ず勝つ。戦っているんだな、と実感できるからだ。
ふと席をはずしたら慣れていない取材の人が置いたのだろう、トイレの前に棋譜があった。見たら、高橋九段の勝ちと書いてあった。
あら、上がっちゃった。うれしいなあ。途端に乱調になり、そして必敗になった。
今度は不安になってきた。あの棋譜が去年のだったらどうしよう。何かの錯覚で、実は鈴木勝ちだったらどうしよう。
思い返せばアホとしか言いようがないが、本当に心配した。
そんな中で打った金。今から思い返しても具合の悪くなる手だがまさに気力だけ。自分らしい、とも思った。
負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く、抵抗がある。でも、その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちるかのように、転落していくんだろう。
レベルが高く、残留すら難しいクラスで戦うことができる。この気力を維持して頑張りたい。
将棋世界第71巻第5号 2007年5月号 82頁)



解説を加えておくと、書かれている対局は、平成19年3月16日第65期順位戦最終局、野月浩貴七段との対局。
「負けと知りつつ〜転落していくんだろう。」のくだりは、梅田望夫「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」で取り上げられて、有名になった。
確かに取り上げたくなるような素晴らしい言葉で、この本もとても面白い素敵な本なのだけれど、
この言葉を取り上げているどこもかしこもこの本の孫引きばかりで、文脈が分からずとてつもなくイライラしていた。
腹がたちすぎたので、本を取り寄せてスッキリ。有名になった言葉だけではなく、全部を読んでも豊かで人柄がにじむ素晴らしい文章。表面だけすくってドヤ顔してみせることが、いかに無残で惨めで害悪に近いことかが分かると思う。


ちなみに、この対局は185手木村一基七段の勝ちで終わっている。