EXILE

「がんばろう日本」という言葉が苦手だ。ついその後ろに、「がんばってるもん俺」という風に並べてしまうからだろうと思う。


被災されている方の苦労に比すれば、私のがんばりなどいかばかりかと思うは思うのだが、それならば「がんばれ」という言葉は適切なのだろうか。「日本」という対象は適切なのだろうかと考えてしまう。


考えに考え、指差す対象を広げに広げた結果が、「がんばろう日本」になるのだろうとは思うのだが、貼る前の大きく広がった障子紙のような真っ白な空間にすることといえば、指で穴を空けること以外に思いつかない。まぁ、不謹慎なことではある。


新聞を開けば、安藤美姫さんが勝って、政治家の指導力が試されているそうだ。私は安藤さんのファンなので、素直に喜んで、昨日の新聞を取り出して見直したりした。インタビューは、相変わらず頭が軽そうだったがそれが実にいい。私はこの人が好きだ。


政治家が指導力を試されている件については、それは到底無理というもので、それは長きに渡って「政治家」という職業を罵倒し、貶め、心底軽蔑しきった我々の責任だと思う。それはお前がそうなだけだと言われれば言葉はないが、まともな人間なら、政治家になろうなどと思わなくなったのは、つい最近のことではあるまい。


社会改良家、などという人がかつていた、そうだ。そうだと付けるのは、今もいるのかもしれないし、そのことについて良く知らないからだが、今そういう人がいるとすれば社会の「改良」すべき点をどういう風に見つけるのだろうか。


私が知る限り、人は変化を好まないし、停滞を倦む。結果、見せかけの変化だけが続き、それは厚く堆積し、土台はその重さのあまり軋む。事故は起これば一瞬で、その原因は長く深く根を張っているのが常だ。変わらないことを選んでから、日本という国は随分と長くたっているように感じる。


政治家に話を戻せば、中曽根康弘という元総理大臣が朝日新聞のインタビューを受けていた。一面ぶち抜きで「原発は必要だと思う」と語る彼に、私は拍手を送り、ほとんど感動したのだが、その意見には全く賛成できない。ただ、「指導力という道具」は、こういう人が持たないと使うことすらままならないというのが事実だろうと思う。


渋谷駅の入り口に、EXILEの人たちがバリッとしたスーツを着て、「がんばろう日本」という文字とともにこちらをにらみ付けていた。そこにfor Japanと書いてあることも私は見逃さなかった。私は「何もそんなに沢山並ばなくていいのに」と思ったのだが、これを見て勇気づけられる人がいるのならば良いのだろうと、目を伏せた。