宿題

「人の死」について、良く考えるかと言えば嘘になって、
私はそこに直面しなければそういうことを考えない。


まぁ、それでも直面すれば、否が応にもそのことについて考えることになって、
結果として私は亡くなった祖母について何か一つ書いておかなくてはと思い続けている。
それは勝手に自分がそう思っているだけで、取り立てて誰かに言われたとか、
そういう外部的な要因があるわけではない。
なぜそう思ったのかも良く分からない。
久しぶりに干そうと思った布団の間から、何か書きつけのようなものを見つけてしまって、少し気になる。
そんな感じだ。あと、別に書きつけは見つけてないし、祖母は布団では寝ていなかった。


当然、「思っているだけ」のことは、なかなか実行には移されない。
だから、その思いは、思いだけ今も私の内側にあって、心の一部に座り込んで、時折こっちを見ていて少しそわそわする。
で、年の瀬となって、ふと11月末に少しだけそのことについて書いたことがあったのを思い出した。
不覚にもtwitterをやっているのだが、そこで若者にからまれたので、少し相手をしてやった、
つもりでいるのだが、おそらく向こうもそう思っているのだろう。
以下、勝手に転載する。





M:@koshoashita 銀杏の雌は、この時期実をつけていて臭いことは分かる。臭いけどギンナンはうまい。最初に食った人は偉いと思う。あ、あと、30過ぎて若いとか言われるとマジムカつく。命の本質なんて知ったことか。そんなこと語るより現状を見ろ。命を燃やしてる老人達を見ろ。140字。


T:矛盾。「30過ぎて若い」と言われるとむかつくのに、「老人を見ろ」とは論旨の整合性が取れてない。もしかして、「私もまた老人なのだ」という主張なのか。だとすれば、あなたは老人ではないよ。あと、銀杏が臭いのは一時だけなのでそれほど偉くないと思う。140字。


T:人は死ねばガラクタになるのですよ。残り少ない命だからこそ、激しく燃やすのは当然だと私は思うが、世間の人は思わないのか。「執着」は、若者のものではなく、年寄りの資質ですよ。


T:こう書くと、私が「年寄りの冷や水」的なことを言っているように聞こえるかもしれないけれど、別にそんなことはなく、ただ人間って生き物というか、日本人ってそういうもんなんじゃないかと、招き猫がそこにあるみたいにそう思っているだけですよ。


T:そして、私はガラクタや廃墟に意味がないとは思わないし、むしろ「死んだら悪いこと言う人いないのにな」と思う方ですよ。生きているものよりも、死んでいるものに高い点数を与える方ですよ。だから、命を燃やしている老人は最も眉をしかめるに値する存在です。


T:そういう老人は、真正面から叩き潰してやるのが礼儀と思うのですが、そういう人ほどずるいし、手強いし、一筋縄ではいかないですよ。老人を見て「助けてあげなきゃ」なんて思う方がおこがましいと、私は思いますが、世間の人はそう思わないのか。


T:などと、介護の現場にいる人を捕まえて罵るなどという、身の程知らずをやっているという1時8分。今日もお勤めごくろう様。大事にしてあげてね。


T:そういえば、この前祖母がお世話になっていたホームの方が、一周忌だといって大きな花束を届けてくれた。


T:ばあちゃんが、それに値するほどのことをその方々にしたのだろうかと思って不安だったが、花は満面だった。それでも、ばあちゃんがその花に値するだけのことをしたとは思えなかったので、私は少し難しい顔をしながらその花を見ていただろうと思う。


T:そこにいた人全員に、彼らは花を届けているのかなとも思う。だとすれば、次の人もそのホームに来て欲しいという営業なのだろうか。アフターケアという言い方も可能だろうが、どうにも効き目が弱いような気がする。


T:結構考えたのだが、結論としてはもうこのことは考えないことにしようと思った。人はいつか必ず死ぬのだし、人は死ねば瓦礫になるのだ。そして私は人の死を憎んでいるし、それを飾ることに抵抗を感じる。


T:私は死んだ人に手を合わせるのは好きだが、花を手向けるのは好きではない。人の死骸に、花の死骸を飾ってどうする。


T:だとすれば、見ず知らずと言っていい方から、祖母に送られた花をどう位置づければいい。ありがたい。もちろんありがたいよ。そして、両手に抱えなければ持てないほどの花束は、まさに命そのものといった感じでそこにある。あの世があるなら、祖母はそこで喜んだだろう。だから、考えるだけ無駄なのだ。





私のtwitterは、話しかけられた相手を、刃物を持って追いかけ回しているように見えるらしく、
というか、もうほとんどわざとなのだが、別に喧嘩をしているわけでも、怒っているわけでも、
狂っているわけでも、多分、ない。相手も選んでいる、と、言いたい。


別に、祖母本人については全く触れていない上に、老人をまるごと罵倒せんという有様だが、
この辺が、今の私の限界なんだろうなぁと思う。
認めざるを得ない。祖父にしろ、祖母にしろ、私は彼らについて多くのことを知らないのだ。
知らないことが多すぎて、知っていることが少なすぎて、それでもその人たちは最早亡く、
それを見て途方にくれている。
彼らのことを話題にしてくれる人がいれば、嬉しく、
そして、そのことは自分が「よく知らない」ということを、くっきりと浮かび上がらせる。


ようするに、相手のことを良く知る、ということを怠ったのだね。
しかし、言い訳させてもらえば、彼らは生れた時から私のじいちゃんであり、ばあちゃんであったわけで、
彼らのことなど私が知らなくとも、彼らは私に無制限にあらゆるものを与えてくれたのだ。
私にとっての彼らは、文字通り「両手離し」の人で、それ以上に知るべき何か、というのは無かった。
逆に、それ以上に知るべき何かがあるか、と問いたい。
彼らが「人間」である以前に「ばあちゃん」や「じいちゃん」であると、私は心の奥で今でも思っている。




こんな言い訳をしたところで、「祖母について書けない」という情況が変わるわけではないのだが、
年が変わるその前に、一度このことに触れておく。
かさぶたの下がキレイに治ってしまう前に、ちょっとだけ爪を立てておこう。