考える までもなく

ことばには、
他人の納得のために話すことばと、
自分の納得のために話すことばがあると思います。
この二つは全然別のもので、人間は大体どちらかがうまくて、どちらかが苦手だと思います。
自分はどっちが得意で、どっちが苦手かを把握しておくのはよいことかもしれません。
まれに、両方がうまく行くことがあって、その時が素敵な時間ですね。





自分の思っていることを人に伝えることが苦手だ、
という人は私を含めて世の中にたくさんいるんだと思います。
昨日いづこかで、「自分に対することば」と「他人に対することば」は違う、というようなことを書いたのですが、
それは自分の思っていることを相手に伝えるためには、絶対に「翻訳」が必要だよな、
ということが身に染みた、ということから来ています。


ことばたらず、舌ったらずであること、人後に落ちないと自負する私ですから、
「ことば」のせいで痛い目にあったことは数知れず。
というか、思い出したくないというか、思い出したくないと書くとなんか蓋が開いていろいろ思い出してくるというか、
そういうことは、本当にやめてもらいたい。というか、自分死ねと思うわけです。
やめやめ。


上の話題をちょっとだけ掘り下げると、
「他人」に対することばは、「通じるように話す」というのが一番大事なので、
整理されて情報量の少ないことばが良いように思います。
翻って、「自分」に対する言葉というのは、
「観念的だけれど自分にとってしっくりくる」、ことが重要な気がする。
特に自分に対することばというのは、自分の柔らかい部分を守る最後の砦みたいな部分があるので、
できれば優しくあってもらいたいと思うのですが、なかなかそうはいきません。


まぁでも、ことばというのは泡みたいなもので、口に出した瞬間に、
もうあらぬ方向に飛び去って、やがて割れているものです。
だから、一個飛ばした泡に気をとられないで、しゃぼん玉のように一杯だしたらいいんじゃないかな。
ぶくぶくぶくと。