なりたいものに なれただろうか

さいころには夢があって、
さいころには誰にでも夢があって、
なにかになりたかったり、あるいは誰かになりたかったりするわけです。
幼いころに身近な人からもらった小さな喝采が、
稀に、その人の体の中でずっと鳴り続けていることがあって、
徐々に大きくなっていく体にあわせて、だんだんその音が大きくなっていくこともあります。


やがて、昔小さかった人も大人になって、
肉体的に完成して、歩幅も昔よりずっと大きくなって、
強く地面を蹴ったり、力強い音を出すことができるようになります。
それにつれて、
かつて身近な人からもらった小さな喝采は、
やがて他の人も巻き込んで、だんだんと大きな喝采へと変わっていくこともあります。


大きな喝采は小さな喝采より力強くて、時折、周りの他の音なんてまったく聞こえなくなってしまうことすら。
そして、喝采は小さいより大きいほうが気持ちがいい。
さいころの小さな喝采ですらすばらしかったのだから、
鳴り止まぬ大きな喝采は、それこそ無限や永遠といった言葉が頭をよぎるほどの感情だと思えます。
ただ大きな喝采は、小さな喝采と少し違っていて、
その全てが自分の前から飛んでくるものではありません。
鳴り止まない四方から来る音の洪水の中、
どれだけ分厚い壁を築いても鳴っている音の中で、
生きるというのは多分とても大変なことです。


やがて時間がたって、
大きなのっぽの古時計が止まる日、
おじいさんの体の中では、どんな音が鳴っているのでしょう。
幼いころに聞いた小さな喝采は、いつまでも体の中で鳴っているのでしょうか。
それとも、今はもう静かに。