当麻

おもしろい漫才がある、
漫才のおもしろさというものはない


年末、M-1グランプリとかいうのを見て、そのことについて時々思い出しては考えていました。
で、まぁ優勝したとかしないとかいうのが微妙だというのは前提として、
「なんかそれを見て笑いたい」みたいなことを、あのM-1グランプリという番組はもう少し先に進めてしまいましたよね、
みたいなことを思っていたわけです。


漫才をやって、一番面白い漫才だった人が優勝。
そういうコンセプトで、まぁ実際のM-1はもう少し複雑なコンセプトなんですけど、でもまぁそういうことで、結果ああいう風になったわけです。
それに関しては私はまぁそういうもんかな、と思っていたわけです。
マジで不満はないし、来年も愉しみだなぁみたいな。
でもね、ああいう意味不明なくらいシリアスな感じで、それでもなおかつ漫才で人を笑わせる、みたいなね、そういうことには考えることがありました。
あれを見ている人って、わりと一生懸命見ているわけですよね。
まぁ、ある意味必死というか。おもしろいかどうかに必死、というか。


あそこの決勝に出ている人とかって、「漫才的に」おもしろくない人とかって存在しないわけですよ。
そのための予選なわけですし。
そうなれば、その先はマラソンとしては「最後のトラック勝負」みたいなところでやってるわけですよね。
それでも、差はできるわけですよね。先頭で走り抜ける人は一人、というか一組、みたいな。
そういえば、今年の駅伝見ました? 2位と3位が同じタイムみたいな。
それでも結論は出るわけで、カメラを見れば一目瞭然なんですよね。
明らかに、こっちの方が一歩遅れてるみたいな。
ただ、駅伝ならカメラで見れば一目なんですけど、M-1だとその結論を出すのは審査員だったりするんですよね。


審査員が決める、っていうことはスケートでいうところの芸術点なわけで、これは正直見ている方には伝わりづらいことなわけですよ。
まぁ、M-1ってアイススケート・フィギュアみたいな立ち位置なんで、当たり前なんですけど。
で、技術点が高いとか、芸術点が高いとかまぁそういう色々があるわけなんですけど、そんな中で優勝者が決まりました。
そうでした。
みたいな、ことがあるわけです。
で、その結果に不満はなかったわけなんですけど、でもまぁ今日にいたるまでに時々考えていたわけです。
あの結果は、それでよかったのかなー、どうだったのかなー、みたいな。
そして、もう二週間もたった今。ようやく、この言葉があったことを思い出したのでした。


オードリーの春日クン。おもしろかったですよね。
かつて、笑い飯がそうだったように、その日ぶっちぎり、ってことがあるのですよ。
俺が「春菜クン」と間違えると即座に、「春日だから」って訂正が入るくらいに。
それは優勝とかそういうことではなく、「美しい花がある」、みたいなことなわけです。
でも、「花の美しさ」みたいなものを説明するのがM-1という番組ですから、それが優勝とはいかないのは当然なんですよね。
こうやって簡単にまとめると、実は怒られがちなことになるのですが、まぁその辺はご寛恕を。


最近、ずっと「放送室」というラジオ番組を聴いています。
で、それを聞いていると、最近のお笑い番組のプレイヤーの方がいかに「おもしろいってなにか」みたいなことを説明したがっているのか、
という風なことを感じてしまいます。
おもしろい人って、自分がおもしろい理由を説明したがってるんだー、というようなことを思ってちょっと微笑ましいです。
そういうことにずっと違和感を感じていたのですが、ようやくこのキーワードを思いついたので、小林秀雄の威を借りて、ようやくすこやかに眠ることが出来るようになりました。
でもまぁ、あんたらはそうはいかないんでしょうけど。