イヌがいぬ

最近、飼い犬の具合が悪く、内臓を内側からかきむしられるような思いだったわけですが。
昨日、無事、というか、ついに、というかなんというか、息を引き取りました。
朝の九時くらい、トイレに行くと吠えて帰り道にパタリと。
享年10歳。小型犬だとしても短命な方だと思いますが、持病有りの半病人だとすれば、案外もった方だと思わなくもありません。
ここ一週間、見てるこちらが息苦しくなるほど、呼吸をするのが大変そうだったので、心の中ではホッとしたという部分があるのも確か。
それでも、もう一方ではどこか簡単に「まぁなんとかなるんじゃないの」と思っているところがあるので、やはり急といえば急なのです。
まぁそんなことを言えば、何かの「死」に関して「急じゃない」ことなどありはしないような気もします。


というわけで、昨日はお通夜でした。
初めて知ったのですが、最近は犬が亡くなってもお通夜をやるのですね。
まぁ家族なので、やること自体にはなんの文句もないですし、何が嬉しいのかも分かりませんが喜ばしくもあります。
枕元にロウソクと線香など用意して、布団に寝かせました。シーツの代わりに、私が子供の頃に使っていた黄色いタオルケットをかけていました。「だいし」と刺繍が入っていて、思わず笑ってしまいました。
近所に住む親戚連中やら、一階の店の子たちが来てくれて、一緒に隣りの寿司屋で頼んだ寿司や、斜向かいのピザ屋のピザなどをつまみました。
18歳でできちゃった結婚をした従妹が、花を買ってきてくれたので枕元に飾りました。一輪挿しに咲く可憐な花が異常に美しく見えて、ビールを飲みながら、「あぁさすが女の子は、良く気がつくもんだなぁ」とぼんやりと感心。こんなに美しいものを見たのは、ヴラマンクの描く空の色以来でした。


夜もかなりふけた頃、彼女を溺愛していた父親が、酔った勢いでアルバムを持ってきました。(私は彼が後を追うのではないかと心配していたのですが、そういうことは今のところないようです)
彼女の小さな頃の写真もあって、これがまぁかわいいのなんのって。
毛むくじゃらの、ぽわぽわのかたまりみたいな生き物で、それでもおとといと同じ顔をしているのでした。
私は小さくてもろそうなものが苦手なので、小さい彼女のことをあまり触われないでいたことを思い出しました。
そして、一緒に写っている人たちもほぼ10年分若く、現在とその時をつなぐ部分が彼女との付き合いとなります。
誰もそうは言いませんでしたが、私は「二人ともずいぶん老けたなぁ」と思っていました。そして、ということは私も同じだけそうなったということでもあるのですね。
「次は誰の番だろうか」と不謹慎なことを考えながら、それはもしかしたら自分かもしれないなと思ったわけです。


一夜が明けて、お昼過ぎ。私がてんぷらうどんを食べていると、迎えの車がやってきました。
慌てて食べ終えました。見送りにでなければ。家で仕事をしていることが、こんなにありがたかったことはありません。
白いワゴンが、彼女を焼き場まで連れて行ってくれるそうです。
お棺代わりのダンボール箱を私が持って外に出ました。母親から「落とさないでよ」と注意され、「約束はできない」と答えました。
ワゴンの後部の扉を、動物葬儀屋さんの方が開けてくれました。中にはビニール袋が沢山入っていて、ひんやりした空気と一緒に、なまぐさいようなイヤな匂いがあふれてきます。「なんだろうか?」という顔をしていたら、その方が「道ではねられたりした動物です。環七とかで」と教えてくれました。なるほど、そういうのも職業の守備範囲なのかと納得。
ダンボール箱を片隅に納めると、「よろしいですか」と尋ねられました。「ハイ」と母親が応えたので、扉が閉められました。
いよいよお別れです。
去っていく車を、門のところから見守りました。彼女が骨になって戻ってくるのは、明後日のことだそうです。


部屋に戻る前に、トイレに行こうかと思い二階に上がりました。ふと左手を見ると、彼女のトイレがありました。
そういえば、自分がトイレに行く時には彼女がそこで用を足していないかどうか、確かめるのが癖になっているのです。
そこにはまだトイレはあるのですが、まぁ彼女は不在です。
いつまでトイレがそこにあるのかは分かりませんが、彼女はおそらくずっと不在です。
私はいつまで、そのトイレを確認する作業をするのか分かりませんけれど、確認するたびに彼女の不在を思うのでしょうね。