想い出は襟の内に

ご存知のように、見ていてあまり楽しかったり嬉しかったりする顔ではないので、あまり鏡は見ません。
顔を洗う時くらい見そうなものですが、視力が良くないもので、顔を洗うと自分の顔が見えません。ぼんやりとしか。
まぁ、不愉快なものを見ないで済むわけで、それはそれで良いのですが。


ならば、髭を剃る時くらいは見るだろう、となるわけなんですけれど、なんと私の部屋には鏡がありません。
そのため、髭を剃る時にも鏡は見ません、使えません。
「そんなことじゃあ、剃り残しが出ちゃうじゃないか」と、こうなるわけなんですが、確かに剃り残しは出ます。
出たらどうするのか。出っ放しの、残りっぱなしです。だから私の顔には、常に何本かの2ミリくらいのちょろっと長い髭が残っています。
そうすると、「いい大人が、そんな顔で人前に出るのか」、という話になるわけなんですけれど、ここだけの話、私はあんまり人前に出ないのです。
実際のところ、一日の内で一番多く会話をするのは犬とです。「おはよう」から始まって、「おやすみなさい」まで。彼女の仕事は日中は昼寝で、夜は餌を食べて眠ることなので、一番長く家にいます。その次は私です。なので、自然会話の量は多くなります。まぁ、意思の疎通のない状態を、会話と呼ぶのであればなんですけれど。
それに言わせてもらえば、私はあまり髭が生えそろっていない人で、なんか200本くらいしかないのです。なので、髭を剃るのは週に一回程度なんです。それも、電気カミソリしか使いません。なので、あるていど長くなってしまうと、うまく剃れないのです。私の剃り残しは、電気カミソリの性能にも問題があると思うのですよ。
まぁ、言い訳になっていないことは、重々承知なんですけど。


まぁ、そんな私なのですけれど、それでもたまには鏡の中の自分と目が合うことがあります。
昨日、お風呂に入っていたら、突然目に違和感を感じて、鏡の前に立ちました。
まぁ見たって分かるわけないのですが、一応ね。
案の定、目にはなんの変わりもなく、違和感もまばたきと共に無くなっていきました。
フン、と思って鏡から離れ際、自分の首まわりが日焼けしているのが目に入ってきました。
見間違いかな、と思って見える距離まで近づいてみると、やはり焼けています。
あぁー、と思いました。


つい先日、大阪に中古の本を売りに行く機会がいありまして。
10月であるにもかかわらず、大阪の日差しはかなり強く、気温は27度とかだったわけです。
そんな中、私たちは陽に当たりっぱなしでお釣りを渡したりしていたので、すっかり日焼けしてしまったのです。
鼻の頭とか、まくった二の腕とか。
で、首のまわりもその仲間だったのですね。
大阪から帰ってきて二週間くらいたっています。もうすっかりあのことは過去となり、失われたのは自分のヤル気だけだと思っていたのですが、こんなところにまだその跡がありました。
「あぁ、そんなところにいたのか」という感じがして、救われた気がしたのはなぜでしょう。
不思議なもんです。


若い頃は単純なもので、楽しいことで回りを埋め尽くしてしまえば、嫌なことなど起こらないはずだと考えていました。
長じて、世の中はそんな風には出来ていないことをなんとなく悟ると、今度は気に入らないものは全て自分の周りから遠ざけることに方向転換しました。
その結果、遠ざかったのは自分と世の中の距離だったりしたわけですけれど。今でも、ちょっと気に食わないことがあるとギャーギャー騒ぐのは、この方針の名残なのかもしれませんね。
で、「人間諦めが肝心」と、おっさんになってからは、もうすっかりただ「良いこと探し」をする毎日です。心に定期的にガソリンを足してやらないと、走れないようになった気がします。昔はどうだったんだろ、思い出せないなぁ。でも、どんなにちょっとしたことでも、何か発見があると嬉しいのですよ。小さい秋見つけた、みたいな。楽しかった思い出は、確かに人の心を上向きにすると思うのです。それが例え日焼けの跡だったとしても、自分にとって価値のあるものならば、元気は出るわけですよね。それを発見したことで。
人は、自分の身に起こったことしか思い出せないわけで、そうするしかないってところもあるのかもしれませんけれど。


こうやって書きながら、日焼けが抜けないのは、完全に老化の現われなんだということに思い至ったわけなんですけれど、自分のヤル気に水を差すようなことは思いつかないでもらいたい。ホントに。