少し涼しげ

・「たんぽぽのお酒」レイ・ブラッドベリ 晶文社


静かな朝、夏の最初の日、まどろみで眠る猫、町、荒野、家々、峡谷、ガレージ、<合同葉巻店>、運動靴、ゼラニュームの植木鉢、幸福機械、消防車、マチネー、フリーリー大佐、「孤独の人」、グリーン・カー……
そして、たんぽぽのお酒。
このようなどこか懐かしく、実はあんまり懐かしくないものたちが、やはり懐かしいのは、それがブラッドベリであるからに他なりません。


「あなたの足にはメントールの爽やかさを!」
せっかく、新しい夏がやってきたのに、去年の運動靴をはかなきゃいけないなんて最低だ。
こう言われた瞬間に思い出すわけです。
去年の運動靴をはかなければならなかった自分の不満を。
逆上がりの初めての成功と、生じた誇りと、見上げた空を。





私がある本について何かを書くなどというのは、おこがましい話なのですけれど。


ブラッドベリは郷愁の作家です。
私は、ブラッドベリの郷愁をほとんど愛していて、「たんぽぽのお酒」のそれももちろんそのとおりなのです。
自分と誰かで、ブラッドベリの話をするとしましょう。
ブラッドベリってどこか懐かしいよね」
「うんうん」
こうなることが、容易に想像がつくわけです。確かにブラッドベリの言葉は、人間の心の中にある「懐かしい」の部分を刺激します。
そのために、ついつい「誰にでもこういうことってあったよね」という会話をしてしまうのですね。


でもそれは、実は嘘なのです。
その思い出した体験自体、それは断固として自分のもの。自分以外に理解しようのない、恐ろしいほど孤独な心の動きなのです。
ブラッドベリがつついて出す藪の蛇は、そういうたぐいのものです。(私は知っています)
そのことを分かっていながら、ただ、「ブラッドベリは懐かしい」という事実を、その会話の相手と共有したいと願うばかりに、ついあたかも二人の共通の体験であったかのように話してしまうのですね。
罪深い作家ですね。レイ・ブラッドベリ。もう、全く。大好きです。


実はこの作品は、結構「濃い」ので楽しく読むには適さないような気がします。
「なんか、ちょっと本読みたい気分だな。なんか面白いのない?」
と問われた時に、本棚からちょっと取り出して差し出すには重い。
上手に切り分けられた、食べやすくておいしい物語は、現在ではたくさん存在します。
でもこの作品は、そういう類のものではないですね。
「出来上がった料理」というにはあまりに素材そのものに近く、ゴロッとしていて、小骨もある。内蔵も取ってない。
そんな感じでは、ちょっと人には勧めづらいでしょう。
例えば、「へー『たんぽぽのお酒』あるじゃん。読みたかったんだよ。貸してよ」と言われた時に、「大丈夫かなぁ」と心の中でつぶやきながらしぶしぶ手渡す。
そういう本のような気がしますね。
それに、本当のことを言うと、その本を貸す相手には、「あんたには分からなくていいんだよ」と言ってやりたい気もするのですよね。





最後にもう一つ。
そういえば以前、ノスタルジーの作家として、ジャック・フィニイについて書いたという、恥ずかしい記憶があります。
フィニイが、「現在」による過去への「侵略」を口を極めて罵っていたとすれば、ブラッドベリの郷愁はもう少し前向きです。
フィニイの作品の登場人物は、時に過去の側に立って現在を打ち負かそうとすらしますが、ブラッドベリの登場人物はさまざまな「現在」に傷つきながらも、「次のなにか」にバトンを渡すことを自らの義務として課すのが常です。
どちらが優れているか、という点については私は判断できません。
ただ、個人の好みからいえば、フィニイの立場の方が私は好みです。
火炎瓶やゲバ棒の変わりに、「非日常」を掲げて突撃するフィニイ。彼の方が、私にとってはもう少しばかり愛しい。でも、これは判官びいきみたいなところがありますね。
ブラッドベリは確かに偉大だ。でも、フィニイの肩をもつ人間が一人くらいいたっていいだろ? ブラッドベリは肩をもたれるどころか、何十人もの人間の肩に担ぎ上げられているんだから」
そういう感じですね。
もちろん、両方とも好きな作家ですけど。


私は、本は重いし汚いし読むのには時間がかかるしであまり好きではないですけれど、それでも例外というのはあるのですよ。