ということは、一番さみしいのは、鳴らない電話か

都会では、「携帯電話を持っていない」というと、驚かれるような時代になりました。(申し訳ない。田舎のことは知りません)
私はもちろん持っていますが、とりたてて好きも嫌いも無いという感じです。
ただ、人と待ち合わせる際には、この端末の極めて便利なこと、認めざるをえないです。


この機械が普及するまでは、待ち合わせで「モヤイ像前」と決めたら、相手がどんなに遅れようがそこから動くわけには行きませんでした。
電車が遅れたのか、事故にでも巻き込まれたのか、はたまた化粧乗りが悪いのか、理由は向こうがやってくるまで分からず、イライラしながら待ち続けなければならなかったのです。
しかし、携帯電話の普及のおかげで、「待っている側」から「待たせている側」にアプローチ可能になりましたし(これは革命的なことです)、メール機能まで付いているわけですから、公共の運送機関を使っている間も連絡をとることが可能になりました。
だから、待たされている側も、相手が30分遅れることが分かれば、ハチ公よろしく同じ場所に突っ立っている必要もなく、安コーヒー屋に入って文庫本のページをめくることもできるようになったわけです。


まぁ、これはあくまで携帯電話を持っている同士のことで、今でも携帯電話など不用として、持たない主義の人も当然います。
理由は積極的だったり、消極的だったり色々なんでしょうが、まぁ「それほど急ぐ用事は無い」という主張には、個人的には頷けるところがあるような気がします。「必要な連絡はこっちからするんだから、いい!」とか。これは、ちょっと強気すぎるか。
公衆電話が減って、携帯電話非所持の不便さは増していると思うのですが、それでも持たないのですから主義主張と言って良いかと思うのです。
実際に、携帯電話を持っていないために起こる不便などというのは、目の前で事故が起きた時にすぐに救急車が呼べない、とかそれくらいのような気がします。
四六時中、「向こうから呼びつけられる不自由」に比べれば、その程度は不便でもなんでも無いですよね。


なんだか、こう書くと携帯電話なんて持ってない方がいいような気もしてきます。
でもまぁ、今更手放せないですね。
嬉しい知らせなら、真っ先に聞きたいわけですし。
聞いてるのに聞こえないフリは出来ますが、ただ聞いていないのはなんか残念な気がしませんか。
そうでもないか。