謝る時は、すでに間に合っていないことについて。

知り合いがテレビに出ていて、アッと思った。
次の瞬間、申し訳ないのだが笑ってしまった。
思わず笑う、というやつで、反射的にげらげら笑った。


内容も、出ている本人も大真面目なもので、笑うなんていうのは失礼以外なにものでも無いのだが、出てしまった笑いは止まりはしない。
同じようなことがあれば、何度でも笑うような気がするので、これは習性なのだろう。
フォローするわけではないのだが、テレビ映りは良かったと思う。いかにも、取ってつけたようであれだが。
スーツが似合っていないような気がしたが、それは見慣れないからに違いない(そういうことにしよう)。
顔をまじまじと見たのは久しぶりだったが、別段なんの感想も無かった。
あまり、年齢の影響が出ない顔立ちなのかもしれない。


知り合いがテレビに出ているなどという経験は初めてなので、それと断定するわけにはいかないのだが、今思い出してもむしょうにおかしい。
電車で思い出し笑いしそうだ。
繰り返しになるが、内容は真面目なものなので、笑うのは内容のせいではない。
おそらく、「知り合いが出ているテレビ」なんていうのは正気では観られないということなのではないかと思う。
真面目なことを言っていれば、「うわー真面目なこと言ってるよ」と言って笑うだろうし、適当なこと言ってれば、「うわー適当だなぁ」と言って笑うだろう。
ようするに、何やってもダメなのだ。どうしても笑ってしまう。
笑う自分を失礼なやつと思い、償いのように「そうだ言う通りだ」と加担してはみるものの、やはりおかしい。
スーツの仕立てを褒めてみても、笑いながらでは信憑性はゼロである。
別にあざ笑っているわけではないのだ。
むしろ、真面目に受け止めたい、受け止めなければと思っている。
柄では無いことは、本人が良く分かってる風なのでなおさら。
そう思えば思うほど、笑ってしまう。げらげら
笑いどころの無いところでげらげら笑っているわけだから、もう理由は「知り合いがテレビに出ている」ということしか考えられないわけである。
おそらく、私がテレビというものを、心の奥底でそういうものと捉えているのだろうな、と痛感した。
テレビも罪な存在だ(と、テレビのせいにしてみる)。


なんだかとりとめがなくなったので、適当にやめよう。


「確かに人間は中身で勝負するべきだが、勝負している人を笑いながら褒めるべきではない」
というのが、今日の結論なわけだが、これも笑いながら書いているようではどうにもならない。
「ダメダコリャ」と言えば、これもテレビなわけで、「ファーオンファーオンファーオーン」と頭に音が鳴り響く中、今日の記述を終える。
ほんと、ダメだな。