いい年して

例えば、AとB二つのものを選ぶ際に、どちらか一つに決めることが苦手だ。


○と×を決めるのはそれほどでも無いが、ショートケーキとモンブランだったら相当悩むこと請け合い。
何かを捨てて、何かを得るというパターンが苦手なのである。
おそらく、何かを諦めるということに抵抗があるのだと思う。


例えば三種類のケーキがあって、それを一つづつ三人の人間が食べるとすると、私は「残ってるやつでいいよ」と言ってしまう方だ。
これは、上記の「何かを諦めることが苦手」という部分と矛盾しているとも思えるが、「選択肢を人に譲る」ことで、巧みに「ガトーショコラを取ってモンブランを捨てる」ということが起こる可能性を回避しているわけだ。そのことで、「本当はモンブランの方がおいしいかったかもしれない」ことで、悩む必要が無くなるのである。それしかないなら、仕方が無いからね。
AとBの一方しか選べないということというのは案外少なく、人生は、「事実上一択」という場合がほとんどなので、諦めることが苦手でも案外困ることは無いのが幸いだ。世の中の大半は、「わりとどうでもいいこと」で出来ていて、おかげで私のような人間でもなんとか生きていけるわけである。


ただ、この「諦めることが苦手」という性格が大きく響く場合がある。
これは、多くの人が同様だと思うのだが、私は楽しいことが好きだ。
素敵な思いつきというのは大事にしたいし、自分に出来ることでその楽しみが拡大するならば、なるべくそれに参加したいと願う。
朝から仕事があるも早めに終わり、おいしいおそばやさんがあると聞いたので、昼時から出かけて行ってつまみを舐めながら日本酒を呑み、二件目に梯子をし、夕方からの約束に遅刻しないように慌てて電車に飛び乗り、夕飯を食べてから楽しくおしゃべり、終電に飛び乗り朝まで麻雀をする。
正直、キツイ。(というか、死ぬ)
でも、それぞれどれをとっても楽しみだし、楽しいし、諦めたくないのである。
なんとかなるようなら、なんとかしたいし、してしまったりもするのである。
正直、キツイ。今、キツイ。
なんにしろ、過剰な方角へ行ってしまう傾向が自分にはあるような気がする。だって、やりたいし。


まぁ、こんなのは自分一人がキツイだけなので、大した問題でもない。
問題になるのは、「あーこうなったら楽しいな」という素敵な思いつきに他人がからんでくる場合があるということだ。
物事の規模があがることで、楽しみの総量が増える場合は結構多く、大げさになればなるほど面白いというのは容易に想像がつく。
一人では出来ないことも、二十人なら可能だとすれば二十人を動員する意味もあるということになる。
ただし、二十人で何かをやる場合は、一人でやる場合より大変なことも沢山出来てしまうわけだ。
端的に言えば、なにするにしても二十人に影響が出てしまう。それを想像するだけで、ちょっと眉をしかめたくなる。
それでも、思いついたことは消えてなくならない。
つまらないなら問題にすらならないわけだが、それを「ちょっと素敵だ」と思っているわけである。他ならぬ自分が。
正直、私は他人様に迷惑をかけられるのが苦手だ。他人様に迷惑をかける方がちょっと得意だけれど、好き好んでかけようと思わないのも確かである(一応、信じて欲しい)。それが二十人。ちょっとひく。
それに、大掛かりなことをやろうとすれば、エネルギーが必要とされる。
以前やったことのあることなら、想像するのも容易である。
「大変なのは分かってるんだけどなー、やったら楽しいだろうなー」


結局、自分がやりたいことを諦めないと、思いつきを何から何まで実行に移してしまうということになる。
自分一人ならば自己責任というやつで、失敗すれば布団でもかぶって寝てしまえばいい話だが、他人がからめばそうはいかない。
でも、他人となにかをやるのは楽しい。非常に楽しい。
それ以上楽しいことは無いんじゃないかと、思うくらい楽しい。
それでも、かかる労力、払われる犠牲に見合ったものなのかと考えれば、気が重くなるのも確かだ。


結局、自分は諦めないのだろうが、では「どう諦めないのか」。それが、ちょっと不安だ。みんな優しいから、「だってやりたいし」と言うと、「しょうがねーな」ということになってしまうだろうし。