紐解く

書物を読むことを、「紐解く」なんていう言い回しをすることがあります。
そういえば、昔の本は紙の帙(単行本の外箱の変種だと思いねぇ)の中に入っていたりして、これは紐で閉じてあったりします。
そういった本を読むためには、文字通り紐を解かなければならなかったわけか。
案外、散文的な表現なのね、これ。


「紐解く」なんていうのは、なんか一手間かかっている感じがしてなかなか洒落た表現じゃないかと思います。
(散文的と言った端から、こういうことを言うのはなんですが)
まぁ、私は現在グインサーガの89巻を読んでいることから分かるとおり、あまり趣のある読者ではありません。
当然、「紐解く」なんて詞は、今の今に至るまで使ったこともありませんでしたし、意識したこともありませんでした。
ならば、なぜ。


久しぶりに、展覧会に行ってきました。
展示はなかなか良く、思っていた以上に好評でした(私に)。
会場から出る過程に、カタログや絵葉書といった関連商品を売るコーナーが設けられているのは一般的な風景ですが、ここもその例に漏れませんでした。
満足していた私は、映画のパンフレットを買うようなつもりで、その展覧会のカタログを買おうかなと思い、見本を手に取りました。
大冊で、なかなか立派な印象。企画側の気合が伝わってくる本でした。
申し分なし。見本を元の位置に戻し、財布を手に取ろうかと思ったその時でした。
私の頭の中に、「自分はこの本を家で紐解くことがあるだろうか」という考えがよぎったわけです。


そういや、『「紐解く」は「繙く」って書くよな、漢字これであってたっけ』と考えたのはまぁどうでもいいので、おいておきましょう。
ようするに私は、明日以降にもう一度エルンスト・バルラハについて思い出し、自分の興味の対象として文献を調べることがあるんだろうか、と考えたわけです。
そして、好奇心を満たすために、そのカタログを取り出しページをめくる自分の存在を疑ったんですね。


私は、小説を再読することがほとんどありません。
頭から読み始めて、最後のページが来たら終わりです。
それが私にとっての「本」で、「本を読む」ということです。
しかし、展覧会のカタログはそういう存在ではありません。
そこには、作家の作品があり、年譜が付き、解説があります。
自分の好きな作品が載っているページを何度も見直し、自分の年にその作家が何をしていたのかを確かめ、小難しい文章を書く頭の良い人の解説を読み分かった気になる。小説とは全く違う、より「紐解く」という単語が似合う本なのではないかと、私はその瞬間に強く思ったのです。
そして、この本は自分に相応しい本では無いのではないかと、考えたのでした。


最近、本と自分の関わりについてぼんやり考えることが多いです。
何を大げさな、と言われると全くそのとおりなのですが、でもぼんやりと考えます。ベットの上に座って、本棚をじっと見ながら。


「この本棚にささっていて、もう二度と読まないだろう本たちは一体なに?」


それでも、一度は目を通しているし、一度それをやってしまうと無下には出来ないのですね。
自分の一部が、それらに乗り移ってるような気がするし、実際そうなのでしょう。
ただ、自分の分身だからといって、もう二度と触れられもしないとするならば、本棚など出っ張った壁でしか無いですし、背表紙はただの壁紙ということになります。
その本たちになんらかの意味を与えるべきなんでしょうか?
与えるとすればどんな? そして、それは可能なのでしょうか?
私はそんなことを考えるんですけど、客観的に見ると、ただベットの上に座ってるようにしか見えませんね。
実際、そのとおりなんでしょうし。


結局、展覧会のカタログは買いませんでした。
この本は自分には相応しくないな、などと思ったのは初めてだったので、なんだか戸惑うような、びっくりするような、そんな感じです。