替え芯

ボールペンを使い切ったことがある。それも6本。
と書くと、自慢になるだろうか。
個人的なことを言えば、今の仕事につくまでボールペンを使い切るなどという経験をしようなどとは、思ってもいなかったのだ。
そもそも、ボールペンというのは半分くらい使ったところでどこか行方不明になる道具では無いだろうか。
そうでなければ、書けなくなるとか。
自らの死期を悟る野良猫のように、そいつはある日突然いなくなるような気がするのだがいかがか。(いや、妖精さんが違う世界へ運んで行くっていうのでもいいんだが)
その、習性あるいは習慣をくぐりぬけて、私は今までに6本ものボールペンを仕留めたことがあるのだ。赤と黒をあわせてね。


数字なり文字なりなんなりを書いているさなか、一続きであるはずの線がふととぎれる。
もうすぐそれがやってくるだろうなー、とは一週間くらい前から分かっているので、まさに運命の瞬間である。ボールペンのおしりを外し、中の芯を確認するとインクの入っている部分は存在しない。勝利を確信し、ガッツポーズなわけである。
今までの私の雇用期間から逆算すると、およそ半年に一本のペースでそれは訪れるらしい。なんつうか、ボーナスが出るのと同じ頻度なわけで、ボーナスほど現実的では無いが、喜びの瞬発力はそれを上回ってるのではないかと思う。さぁ、自分が今までに何本のボールペンを最後まで使い切ったか思い出してみればいい。ほとんどの人は、片手で納まるはずだ。
そうで無い人は…… おそらくプロだ。よほどタイトな、もしくはストイックなボールペンの使い方をする方だろう。そういう方は、もはや普通のボールペンではあきたらなくなり、長さ50cmを超える長いボールペンを使い切ることを夢想しているかもしれない。それを使い切るまでの、過酷な筆記作業。膨大な用紙に文字。おーこわいこわい。そんな代物は、決して失くならない代わりに、一生使い切れないに違いない。まぁ、それだからこそのプロ仕様なのだろう(なんのこっちゃ)。


で、なんでこんな話を書こうかと思ったのかと言えば、私の働いているところには、この基本的には無くならないはずの、無くなる時はそれ自身が無くなるはずのボールペン、の「替え芯」が存在するのだ。それも、一箱(十本入り)。
一本60円らしいので、確かにボールペンを普通に買うよりリーズナブルのようだ。
しかし、半年に一本しか使い切らないのに、それが10本もまとめてあっても、最後の一本は出番は5年後ということにならないか。
さらに、この箱がいかにも「さっさと使え」というように机、の上の非常に目立つところに置いてあるわけである。別に一本や二本ならいいのだろうが、数が多すぎるのだ(その上、箱に入ってるし)。
なので、私はその箱を見るたびに、「いや、ちょっと無理だから」と心の中で言い訳することになるのだ。
もちろん、同僚だってそうそうボールペンを使いきれるわけでは無いから、こいつらの出番はずいぶんと先になるだろう。
「これ、一体どうするつもりなんだろうね」
と、時々指差して話題にしたりされるのがこの替え芯(in 箱)の立場なのだ。


で、こういうのは困るのである。
なにが困るのだか、てんでさっぱりだろうが、なんだかこの箱がある時ふといなくなってしまうような気がするのだ。
ある日、出社するとその箱が無い。しかし、そんな些細なことには誰も気づかずにいつものように仕事をしている。ありふるえた、日常の風景。
そんな中で、あほ面さらして伸びでもしている私が、ふとその箱が無いことに気づいてしまうのだ。当たり前のようにあったそれが、当たり前のようにどこかへ行ってしまい、それがあまりにも当たり前で自分しか気づいていないのだ。
あれ、どうしたのかなと思うのだが、なんとなく誰にも聞けずにその思いを家まで持って帰ってしまう。
あぁ、想像するだけでなんかやなのである。私はこういうのに弱いのだ。きっと、使ってやれなかった引け目が、私を苛むことだろう。なんか、心の中で言い訳するのだ。「いや、10本は多すぎだって」とか。一本も使って無かったことは横に置いておいたりして。
そして、やがて私はそんな箱があったことを再び忘れるのである。全ては日常への回帰。強固な現実が、非現実といってもいい一箱のボールペンの替え芯の存在をかき消してしまうのだ。


あぁ、いやだ。忘れちゃうんのだろうな。
かわいそうだな、ボールペンの替え芯。
明日箱を開けて、筆立てに全部立てちゃおうかな。