空を見上げて(その24)

tanakadaishi2004-07-16

昨日のポップスターの話の続きを書いておきましょう。
宇宙行きの健康診断にパスしたLance Bass氏でしたが、残念ながら「経済的な理由」で宇宙へは行けなかったようです。
確かに行ったら大騒ぎだったでしょうから、さすがに私の記憶にも残っていたかもね。で、そのLance Bass氏が所属していたグループ「インシンク」ですが、現在は活動停止中みたいです。(「はてな」のキーワードになってます。写真もありますが、どれが誰かはわかりません)


それでは今日の一本目。ある老宇宙飛行士の話です。
(Astronaut Awards Students)

As the last man to walk on the moon in the Apollo 17 mission, the last flight to the moon, Dr Schmitt was inducted into the Atronaut Hall of Fame in 1997. He was also the only scientist to have walked on the moon and spent many years working for NASA.
(アポロ17号のミッションにおいて、月の上を歩いた最後の人として、シュミット博士は1997年にNASAの宇宙飛行士の殿堂入りを果たしました。さらに、彼は月の上を歩いた唯一の科学者で、長年NASAののために働いてきました。)

Harrison Schmitt博士が月に行ったのは、1972年のことだそうです。三十年以上も前の話で、それ以来人類は月には行っていないそうです。なぜでしょう、少し感慨深い。
博士は、子どもたちを前に質問に答えたりしているみたいです。これは、日本でも良く見掛けた風景で、宇宙飛行士が子どもたちと話す場を作るというの、アメリカでも同じみたいですね。

Dr Schmitt was more than happy to explain the process.
(シュミット博士は、説明するのに嬉しいったらないです)

さすがアメリカ。日本とは比べものにならないくらい、感情の色が濃いです。

Dr Harrison Schmitt told the students that by the time they were finished university, they would have the technology to send them to the moon, whether they were astronauts or not. The students responded with 'oohs' and 'aahs' and in the meantime they will be searching the sky for the satellite bearing the mirrors that their little hands helped polish.
(Harrison Schmitt博士は、子どもたちが大学を卒業するころには、宇宙飛行士であるか無いかに関わらず、月に行く技術が出来てるよと言いました。それを聞いた生徒たちは、「おぉ」とか「へぇ」と声をあげました。そしてその時まで、彼らはその小さな手で磨くのを手伝った鏡の付いた衛星を、空に探すのでしょう。)

補足をすると、この宇宙飛行士との触れあいの会に参加した子どもの中に、人工衛星に取り付ける「鏡」を磨くのを手伝った子が混ざっているところから出た文章です。
しかし、「あと10年で誰でも月に行けるようになる」とは、博士はなかなか強気です。そういえば、毛利氏は「月にはもう沢山の人が行ったから、どうせ行くなら火星がいいよね」と言っていたことを思い出しました。宇宙飛行士の方って、基本的にイケイケ?
聞く?
(月に行った最後の人。Harrison Schmitt博士のお話)
「real player」要求だそうな。




一日ぶっとばしてしまいました。金曜日はなかなかシリアスなのです。
さて、久しぶりにリファをもらいました。誰かがこの日記を読んでくれているということ、これ以上の励みはありません。
さらにコメントまで。とうとう本物が登場です。私のような、たまたま地続きだからと、だらだら歩いて来た人間とはわけが違います。


http://pages.total.net/~oda/ja/translations/duque/


Pedro Duque氏の、ISS国際宇宙ステーション)での滞在日記の翻訳です。ESAは「European Space Agency」の略で、ヨーロッパにおけるJAXAというような位置づけなのでしょうか。私はこの組織についての知識がまったく無いのでなんとも言えませんが、私が書いた「ボールペンの話」がよりまともな形で登場します。私のように、適当に面白いところだけピックアップしただけの不誠実なものではありません。キチリと面倒をみている、偉い文章です。
ここには、私が読まなかった文章があって、それが結構良かったりします(その上日本語です!)。右上にある写真は、Pedoro氏の日記に登場するものの孫引きなのですが、この写真が地球に関するものであることが私を驚かせます(日本語がおかしいですね)。
左下にある黒い影が地球でしょうか。

窓の向こうに遠く、漆黒の空と地球とのあいだにある地平線のほうに、不規則な形をした黄緑色の薄明が姿を見せ始めているのだ。
雲にしては奇妙すぎる。近づくにつれて、次第にそれは明るい紗のベールのようになり、地上から巻き上がるカーテンを作る。宇宙船がひと周りしてそれをふたたび目にするとき、もう君はそのほとんど真上にいる。カーテンは次第にはっきりとしてくる――それは縞模様で、高度は随分と高く、宇宙船よりも上にさえ届いているようだ。君はそのなかを真っ直ぐに進み、ちょっとした不安を感じざるをえない。これは危険だろうか?
なかへ進んでいくと、すぐ横のカーテンはすべて輝きだし、かたちを変える。それはまるで陽を浴びた窓のブラインドのなかを歩くようだ。その現象は1分、2分、そして3分間も続き、なにも変わったことは感じられない。宇宙船はその軌道に沿って静かに旅を進めている。そしてこの走馬灯をあとにしてふたたび漆黒に面するとき、君は安らぎを覚えるとともに、なにかを失った気持ちにもなるのだ。

あぁ! この人が日本人だったら、と心の底から思います。私は、このように見える現象になんという名前が付いているのか知りません。おかげで、分かった気になることすらできません。「君は安らぎを覚えるとともに、なにかを失った気持ちにもなるのだ」なんていう情緒的な部分はどうでもいいのです。その「黄緑色の紗」が、一体どのようにゆらめいていたのか。それとも、巨大なベールがその偉大さにふさわしく微動だにしなかったのか、私が聞きたいのはそういうことなのです。もし私が、このPedro氏と同国人だったら、そのような言葉の襞が、理解できたのかもしれないのにと思うと、かなり悔しいです。見たままでいいのに…… その説明すら、片言の言葉でしか伝わって来ないなんて、もはや自分の不徳としか言いようがありません。
今日私は、今年始めて蝉の鳴き声を聞きました。武蔵小金井では、渋谷より少し早く夏が訪れるようです。珍しく霰(アラレ)が降ったので、それに叩き起こされたのかもしれません。そんな当たり前のことのように、宇宙飛行士は宇宙から見た地球の姿を語っています。それはあまりに当たり前の姿なので、宇宙飛行士はただ「美しい」と言うより他無いようです。私見ですが、「写真」はそれのみではほとんど何も語ることがありません。ただ「美しい」を代弁するだけの表現が一体なんの役にたつでしょうか。そうではなく、その写真を見て「その写真の風景が実際見ていかに美しかったのか」と語る人がいてこそ、その「ただ美しい写真」はそれ以外の生命を持つことになると私には思えます。


少し喋りすぎました。悪い癖です。本当はもっと書いたけどバッサリです。てめ、このやろ。


ここまでこの日記を読んでいただいた方ならば分かると思いますが、宇宙飛行士がわざわざ宇宙まで行って考えることは、案外画一的です。「洋の東西を問わない」、という言い方がありますが、一日に数十回も地球の上をぐるぐると回れば、東とか西とか言ってる場合では無いのでしょう。(第一、どこから見て東と西なのでしょうか? その根拠は? 右と左とどう違うのでしょう?)
正直なところ、私は宇宙飛行士を崇拝する一派ではありますが、彼らの言うことを鵜呑みにするほど無邪気な人間ではありません。それを私は「悲劇」だと思いますが、まぁそれはどうでもいいでしょう。私が「宇宙飛行士」を見る姿というのは、まるで酒を飲みながら、なにかの素晴らしさを大仰に語り上げる、過剰なオヤジの姿だったりします。
「宇宙から見る地球の姿は美しい」。「いつかあそこに、あなた方も行くのだ」。「我々は決して諦めるわけにはいかない」。
どれも、ほとんど前近代的な、まるでバイキングのような(こう書くとバイキングに失礼なのかもしれませんが)、ほとんど野蛮と言ってよい意見です。
そういう彼ら宇宙飛行士は、一体何を信じてそういうことを言うのでしょうか。そうでなければ、何が彼らにそう言わせるのでしょうか。地球の美しさとは言わせません。この青い惑星が、虫眼鏡で見ればどれだけ美しく無いものかと言うことは、宇宙へ行った飛行士様の方がご存じでしょう。
それでもなお「地球が美しい」というならば、何が美しいかと言えば「ただ見た目が美しい」ということに他なりません。
その国のエリートと呼ばれる人間が、宇宙に行った感想が「ただ見た目が美しい」では確かになんですが、そういう人間をして「美しい」と言うより他無かったとすれば、逆にその美しさが際だつという言い方もありそうです。
宇宙飛行士は、宇宙に行って何をやっているかと言うと、「実験」をやっているそうです。案外忙しいらしいです。そして、その合間を縫ってのぞき込んだ地球は、まるで……のように美しく見えるそうです(「……」は筆舌に尽くしがたいそうです)。
使う言葉は違っても、考えることは同じに見えます。錯覚かもしれませんが、宇宙飛行士は必ず「素晴らしい」と言います。何が素晴らしいのでしょう。地球が? 宇宙が? それとも、そこにいる自分が? 彼らは特別でしょうか? それとも、普通の人間でしょうか? 考えれば考えるほど分からなくなります。
私にとって、宇宙飛行士は「そういう」人たちです。
この天動説の大地から空を見上げ、ひたすらに宇宙を思う人間にしてみれば、宇宙から地球を見下ろした人間がそこにいて、その人と話す機会があるとすれば、遙か高い空の上から見た地球の景色以外に、いったいなんの質問が出来るというのでしょうか? そして、彼ら「宇宙飛行士」が何を語れるというのでしょうか。


なんだか質問ばかりです。
「それを知るために宇宙に行くのだ」、という結論が最初から導けないというのが私の愚かさなのでしょう。


だったら行けばいいのに、と私は思います。
行けばいいのに。ま、こういうのは物を知らない人間の戯言なわけなのでしょうが、行けば?
お金なんて、日銀が刷ればできるんだから、それを使って行けば?
ロケットが無いなら作れば? 危険なら、勇敢な人を探せば? 技術的に未熟なら頑張れば?
ま、そうはいかないんでしょうね。お金さえ払って健康なら、誰でも宇宙に行ける世の中らしいのに、まるで「有人飛行は絶望的」みたいな記事も読みます。なんだか良くわかりません。
いろいろあるんだろうな、とは思います。私の人生でも結構ありがちなんですが、いろいろあるそうです。はは。
中国の人は行ったのにね(軍人ですけど)。人間が最後に月に行ったのは、私が産まれる前だそうです。アメリカ人です。学者です。絶対に、千回は同じ話をしたよね。それでいて、「その人の話を聞きたい」という人間は、引きも切らないはずです。
ま、いいんだけど。


がんばれ!