せつに願う

本当のことを言えば、3月14日から、なんか日記めいたことを書こうと思っていたのでした。
ただ、単純にやる気がなかったので、夜は21時くらいに布団に入り、
ぐーぐー寝ていたりしたのでした。
ほんと良く眠れます。春なのかな。春なのでしょう。何かの傷を癒しているかのよう。
理由を探しますね、なんに関しても、人間って。


残念ながら、人間というのは、生まれもったもので生きていかなければならないわけです。
例えば、終電を乗り過ごして遠路はるばる家路を徒歩で急ぐことも、
途中で落っこちている自転車を探したりすることも。
まぁ、こういう卑しさっていうのは、生まれ持っているもので、今さらどうということもできないわけですよね。


もう一方で、今日なんかは終電にピッタリ乗っかって、
座ったら乗り過ごすかもしれないので、扉際で立ったまま駅に着くみたいな知恵があったりもして、
そういう、生まれてからあと勝ち得たもの、みたいなものも確かにあるわけです。
ようするに、当たり前なことで、人間は生まれる前から持っているものと、
生まれた後から得たことで生きているわけですよね。
ほんと、当たり前。


今日はきちんと電車に乗れて、家に帰って幸いだったと思ったわけです。
帰り道では、桜の花が咲いていて、まだ満開とは言えないまでも、「片目を開いた」みたいな姿で立っていました。
もちろんそんな姿は美しく、また押し寄せる春。
見上げれば、愛しくも切ない桜。こういうことは、生まれる前から知っていたことのような気がします。
一方で、私はその桜の足下を見て、まだほとんどその花が散っていないことを確かめました。
「まだ大丈夫だ」と確かめることが、私が生まれた後に得たことで、
ただ単純に「キレイだなぁ」と思うことだけでは済まないことが、私の数十年なのです。
「花は散るから美しい」というような頭の良い言説ではなく、「美しいものがあったら思わず足下を確かめる」ことが年をとることなのだと私は思います。


そして、こういう足元のふらついた文面を読んで、あぁ酔っ払ってるんだなぁとまず思ってもらいたいなぁ、とも、思う。