「博士の愛した数式」小川洋子(新潮文庫)



80分しか記憶がもたない老いた数学者と、シングルマザーの家政婦とその息子の交流。
海外のドラマや映画なら、鉄板で旅に出てしまいそうな設定ですが、ここは日本なのでボロめな家の中で話は進んで行きます。
これ以上、付け加えることは何もない話です。
その数学者は、野球好きなのだが実際の野球を見たことがなかった、とか、実はラジオの中継も聞いたことがなかった、とか、付け加えられることがないわけではないのですが、まぁ蛇足です。
私の書いた最初の二行から外へ出なかったこと。それが、おそらくこの作者の意図したところで、成功の理由なのだと思います。





で、この「博士の愛した数式」という本は、第一回本屋大賞の受賞作なんですよ。
私はですね、この「本屋大賞」という賞が本当に、大層に、大げさでもなんでもなく、大嫌いなわけですよ。
この文字を見ると、文字通りむしずが走るわけです。
いやだってそう思いませんか。「本屋」の下に「大賞」ですよ。何を大げさに、ばかばかしい。本屋ごときが「大賞」とは恐れ入る(揶揄です)わけです。
一時、本屋の平台にポップを付けるのがもてはやされたことがあったのですが、まぁそちらは納得の範囲内でした。
それくらいの自己主張を認めるにはやぶさかではない。まぁ、この日記みたいなもんです、ポップは。言いたいことがある。だからちょっとだけ聞いてくれ、てなもんです。
しかし、それが今度は「大賞」と来たもんだ。欽ちゃんかっつーの。
なので、これまではこの「大賞」様には近づかないことにしていたのですが、たまたまこの本を借りる機会があり、実はこの本自体には興味があったのですが、それでもこの「大賞」が気にくわなかったので読んでいなかったのですが、借りたからには読むわけで、この「大賞受賞作」とやらのページをめくることになりました。
だから少し調べてやったわけです。なぜかというと、どうせ小説しかもらってないだろうと思って。そして、もしそうなら「本屋で売ってるのは小説だけなのかよ、ばーか」と言ってやるつもりだったのです。
そしたら、案の定。投票規定の段階で、「オリジナルの小説」ということだったので、また気に食わない。あぁ気に食わない。
看板に偽りありだろ、って話です。なら、「本屋の店員が選ぶ小説大賞」だろ。本全体を「小説」ってことにしてもらいたくないのですが、個人的には。
それに、どうせ賞なんてあげる必要がない人にあげてるんだと思うんですよ。その「大賞」とやらを。
で、見ると恩田陸とか、リリー・フランキーとか。お前らが賞あげてなくても、ベストセラーだったんじゃねーの? ようするに、人気投票だろこれ。
いや、10万部売れるはずだったものを、11万部にするくらいの力はあるのかもしれないわけですよ、この「本屋の店員が選ぶ小説大賞」には。まぁ、単純に売り場面積が広がるので。
でまぁ、それが売れると「書店発のベストセラー」ということになってるみたいですが、そのおかげで、本来並ぶべきだったはずの本が並ぶ機会を失っているはずなのです。
私は声を大にして言いたい。くだらんことやって、全体を狭くするようなことすんな! と。
この、「本屋大賞」とやらが何をしたのかといえば、該当の商品をブックオフの100円コーナーに並べるようにしただけなわけですよ。
ようするにね。ばーーーーか。


とまぁ、作品の話になる前に、全く別の話になってしまったのですが、この本を取り上げるにあたってどうしてもこの話は必要だったのです。私の心の安定のために。それに、今更こんなことを言っても遅いでしょうが、私は本屋さんが嫌いなわけでは全くありません。むしろ好きです。ただ、「本屋大賞」が嫌いなだけなのです。まぁ、どうでもいいんですけど。


で、読みながら思ったわけです。「確かに本屋さんが好きそうな話だなぁ」と。
この話は読んでいる間に、「私だけが知っているんだ、このことは」と繰り返し繰り返し、語りかけてきます。
博士の愛した数式」は、博士と一組の母子が、全く危なげない世界で過ごして行く話です。その中で、主人公の母(私)が色々なことに気づくこと、それのみがこの「博士の愛した数式」という小説を作っています。
時折、博士が発する数学トリビアも、「私」によって誰にでも理解できる形で再提出されて「気づきの種」となります。
読者は、「私」とともにさまざまなことに気がつき、時には「偉い人でも大変なんだねぇ」なんて感じてみたり、子供の成長に目を細めてみたりするわけです。
「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」
に代表される、数学記号をからめた比喩は確かに面白いのですが、それはあくまでデコレーションの部分にすぎません。
実際には、80分しか記憶がもたない博士の誠実と寛容が、この話の醍醐味なのです。


小川洋子という作者はなかなかわきまえた方で、博士の「数学者であることの喜びと苦悩」みたいなところに、一歩も足を踏み入れません。分からないことは書かない、ということなのだと思います。そして、この話には「よくあるような大事件」など起こりません、という毅然とした態度を崩さず、最後まで徹底的に日常的であることをやめません。(私は、いつ「博士の業績に対して〜賞をさしあげたいのですが」みたいな電話がかかってくるという、シンデレラストーリーが始まるのかと思って読んでいたわけなんですけど、うがちすぎでした。反省しています)
これはもう本当に見上げた態度で、もしそれをやっていたら私は「ほれみたことか」とここに書いたでしょう。
それをやらないことで、センセーショナルであることに飽きているような人たち(ようするに本屋さん)、に受けただろうなと思ったわけです。
文章は読みやすく、きちんと食べやすく切り分けられてありますし、ノスタルジー少々、ペダントリーも少々、嫌な人間は一人も登場しない、少し知的で誠実なおとぎ話。まぁ、これを純文学と言われると笑ってしまいますが、ライトノベルと言われれば納得してしまいます。誤解を承知でこう書いているわけですが、まぁ娯楽小説としてとても好ましい作品でした。





話は前後するのですが、しかし、この「私だけが知っている」という魅力にはどうにも抗いがたいものがあり、正直なところ、私はほとんど涙ぐみながらこの本を読んでいました。
例えば、博士は記憶が無くなった時のために体中にメモをクリップで留めているんですけど、「私」は家政婦なのでそのメモの位置を覚えていたりするわけですよ。「博士が忘れる」というのは「機能」なのでそうでもないんですが、「『私』は覚えている」のはグッと来てしまうんですよね。何書いてるか分からないですよね、そうですよね。
で、何が言いたいのかというと、この場合私は涙ぐんではいるものの、別に感動しているわけではない、ということなんです。
「涙=感動」と一直線に結びたがる世の中なんですがそうではなく、「あぁーなんか泣いたらスッキリした!」みたいな感じ。
外に出せないものを内側に抱えていると、自然に涙が出て釣り合いを取るって部分があると思うのですよ。


後は、数学ネタはおまけみたいなことを書いたのにあれなんですけど、私がこの本で一番グッと来たのは、
古代ギリシャの数学者たちは皆、何も無いものを数える必要などないと考えていた。
と前置きした後に、
「38と308を区別できるのは0のおかげだ」
という、数学ネタでした。正直、これは超グッときました。これのおかげで、ラスト付近の超あまあまな展開にも目をつぶろうと思いました。時折この作者が見せる「ここに引っかかってね」みたいな目配せにもイライラしたのですが、まぁこの辺は趣味の問題なのかもしれません(文庫解説の方は喜んで引っかかってますし)。


最後に、キャッチボールはラストシーンに良く似合うと私も考えたことがあったので、その点には圧倒的に共感します。