主よ、人ののぞみの喜びを

親の顔が見たい、と口には出すものの、本当に親の顔が見たい場合というのはあまりありません。
でも、そんな中でも一人か二人くらいは例外的に、「本当に親の顔が見たい」と思う人間がいるもので、つい二週間ほど前に実際に拝見しました。
その方は小柄な可愛らしい方で、それでもやはり「お母さんそのもの」という感じで、テーブルを頭を下げて回っていました。
その姿を見て私は胸が詰まる思いだったのですが、ただ見上げるばかりの人間である私は、その思いを伝える方法を持ちません。
いや、まぁそれでいいのです。伝えられても困るだろうし。


そういうことは、めぐり合わせではあるものの偶然ではありえないわけなのですが、しばらく会っていなかった人と、立て続けに会う機会がありました。なんか、これまでの三年分くらいまとめて会った感じ。
久しぶりに会えば会ったでそれなりに楽しいもので、変わったような、変わっていないようなその人を見ながら、ひと時を楽しみました。
一言で言えば「あいもかわらず」ということなのですが、今年の春に出会い、夏に別れた人に「あいもかわらず」と言うよりは、7年の月日を経て「あいもかわらず」という方がいくばくかは重いような気がするのが人情というものです。
私は人情に負けて、「もしかしたら少しはまともなもんになったのかもしれない」と思ったわけですが、私がどう思うかなんていうことよりも、一年もたてば現実が答えを出してしまうのでしょう。
私は来年の元旦に、その人(たち)に幸多かれと願いながら賽銭を投げるつもりでいるのですが、日ごろの行いがよろしくない人間が、思い出したように殊勝な顔をしたからと言って神様が言うことを聞いてくれるとも思えず、「一年の早々無駄金かよ」と今から思っているわけです。


この差し迫った時期にも関わらず、私の好きな人たちはみんな忙しそうにしていたりします。
かく言う私は、23日からこちら、「寝ている間しか喉が渇く暇がない」ほどの酒びたりで、大変楽しい時間を過ごしています。
目の前にビール瓶と話相手がいるという喜びは、私が無条件で感謝する数少ないものごとの内の一つなわけですが、この得ることがなにもなかった一年の最後に、そういう時間を与えてくださった神様に感謝します。
あて先が分かるなら、ファンレターでも書きたいくらいな気持ちなのですが。
「私はこの一年間で一週間だけあなたに感謝しました。そのことを決して忘れないでください」と。
信心は、それにかけた時間を評価するべきではないと思うのです。思いの深さとか、質とか、そういういうことも大事だと思うのですよ。


もったいぶるまでもなく、残念ながら私は恵まれた人間で、部屋は寒いけれど羽毛布団はあるし、働くべきことや時間は自分で決められるし、言いたいことを言っても嫌な顔一つで済ましてくれる大人たちに囲まれて、おまけにお酒を飲む時には相手がいます。
別に、欲しいものはあまりないし、嫌いなものは食べなくても怒られないし、まだ肉体的にはギリギリ元気で、頭の方も自覚できる範囲では昔と変わりなく働いているような気がしています。
電話が止まったこともないし、シャワーはいつでも浴びれるし、洗濯は自分でやらなくてはいけませんけど別に嫌いじゃないですし、部屋に来年のカレンダーもある。
帰るべき田舎がないのは、東京に生まれて東京で育った者としては仕方がないことで、それを望むのは無いものねだりというものでしょう。大体、私は田舎がそんなに好きではありません。
まぁ、こういったことは私の手柄でもなんでもなく、全て環境や優しい人たちが外部から与えてくれたものなのです。
そのためか、私はそういったことに対する感謝の念が薄く、時々自分でも恐ろしくなるほどに冷淡である時があります。
「いらない」と、決して言ってはならないタイミングで言ってしまいそう。いつか、取り繕えないくらいのことをしてしまうのではないかと、自分に対して警戒を強めています。


誰かを愛し、仕事を尊敬し、趣味を楽しむ。
人生にとって大事なことは、いたって簡明。
ただそれだけのことなのに、一ミリも近づけなかった、そんなことに向かって進んで行きたいな。
それでは、良いお年を。ところで、「良いお年」の「お年」っていったいなんなんでしょう。