趣味以上に趣味的な

掃除機をかけながら、「嬉しいってなんだろ」というようなことをぼんやりと考えていました。
「嬉しい」というのは、どうも置き換えが難しい言葉ですね。
「楽しい」とも違うし、「感動する」ともなんか違う感じがします。


私は、「誰かの嬉しいになりたい」と心の中でひそかに考えているのですが、これを実行するのは案外難しいです。
その最大の理由は、「相手の嬉しい」はどうも目に見えずらいことにあるように思えます。
「楽しい」とか「感動」とかは、案外表に見えやすいのですよ。それを、あえて隠そうとしない限りは。
しかし、嬉しいかどうかというのは一見では良く分からず、つい「嬉しい?」と尋ねたくなります。
不安の表れでしょうね。


私が知っている、「他人を嬉しくさせる方法」というのは、実は「昔だれかからやってもらって嬉しかったことをやってあげる」ということしかないわけなんですけど、人間の感情には温度差や気圧差があるので、必ずしもそれがその人に対する正解であるとは限りません。
その辺が、尋ねたくなる理由でもあり、逆に「聞きたいけど聞けない……」という理由であったりもします。聞いてしまうことで、そこにあるかもしれない「嬉しい」を損ねるかもしれないと、感じるわけですね。
せっかくの良い雰囲気に、自分の無粋が水を差す。想像するだに、おそろしい。


人間の心というのは、「本音」と「理屈」の二つで出来上がっています。
どちらが主で、どちらが従であるのかは「まぁ人による」ということにしておきますが、「嬉しい」あたりは、かなり本音よりなところにある感じがしますね。
そして、生の感情は厄介なもので、素手でつかめば必ず火傷をおうシロモノです。
だからこそ価値があるわけで、私がひっそりと「誰かの嬉しいになりたい」と思うのは、人間の表面の部分より内側にあるどうしようもなく動かしがたい部分の方が好き好き、大好きだからです。


もしかしてこれって、
「美しく着飾った姿より、その人の内臓が見たい」
という話なのでしょうか。
うーむ。