偶然の話

大変申し訳ないんですが、偶然の話をさせてください。
今日は、例によってスケジュールがタイトで(酒呑んでへろへろということです)、終電合わせで東横線に駆け込みました。
私は、財布の小銭入れに自宅の鍵や実家の鍵を入れているので、小銭をズボンのポケットに入れておく癖があります。急いでいたせいもあって、ポケットから定期を取り出そうとした時(定期は財布に入っています)、小銭が一枚ポケットから飛び出し、地面に落ちる音がしました。それを、自分が落としたことは分かっていたので、もちろんそれを目で追います。その時、立ち止まっている私の後ろから、急ぎ足で歩いてくる男の人がいて、すれ違いざまにその人が私の落とした小銭を蹴飛ばしてしました。
コインは、最初に着地した箇所からさらに転々として、ちょうど改札口の機械の真ん中で止まりました。それを蹴飛ばした人は、「すいません」と言い置いて足を止めることなく違う改札を通って行きました。私は、その小銭が幾らかも分からなかったのですが、当然小銭が落ちている改札に近づいていきました。
東横線の渋谷駅は、場合によっては対面通行になっている箇所があり、乗る人も降りる人も同じ改札を使える箇所があります。そして、私が列車のやってくるホームに定期を使って入り込むついでに小銭を拾う前に、私の小銭が落ちている改札を、乗るのでは無く降りて来る人が通りすぎようとしました。
優先順位の問題で、当然私はその人が通り過ぎるのを待つことになるわけですが、その向こうからやってくるスーツを着た若い男性は、ちょっと嬉しそうな顔をして私が落としたコインを拾いました。一瞬、「そのお金を私に渡してくれるのかな」と思い、「ありがとう」を言う準備をしたのですが、その男の人はそのままそのコインをポケットに入れ、何事も無く私の前を通り過ぎ、後ろへと去って行きました。その、あまりの「当たり前さ」を見て、私は思わず笑ってしまいました。そしてその男性の後姿を見送りました。もちろん、自分の小銭をうんぬんとは言えませんでした。
ポケットにあった小銭の金額を逆算すると、おそらくあのコインは100円玉だったと思います。私の小銭を拾った男性は、そのコインが後からやって来た男の人に蹴飛ばされたことも知らず、落とした私が見ていることも知らず、ただ目の前に「たまたま」100円玉が落ちていることに「ラッキー」と思って拾ったということなのだと思います。その男性の立場が私だとしても、おそらく同じ行動を取っていると思います。千円、一万円札ならともかく、「たまたま」落ちていたコインの持ち主を辺りに求めたりはしないと思います。
えーと、分かっていただけると思いますが、私は100円玉を盗られたと声高に言い立てているわけではありません(500円玉だったら、心安らかでは無かったと認めるのもやぶさかではありません)。ここで面白かったのは、その男性の姿を見て、思わず笑ってしまった自分にあるのです。
誤解を恐れずに言えば、「まるで神様になったような気分」というやつでしょうか。色々な因果関係があって私の小銭は、スーツを着た若い男性に拾われるわけですが、「私の小銭を蹴飛ばした人間」も「私の小銭を拾った人間」も、それと気づかずに当たり前の行動の結果としてそうなっているわけです。「私の落とした小銭を知らない人に拾われてしまった」と知っているのは私だけで、「私の小銭を蹴飛ばした人」も「私の小銭を拾った人」も、「それがそうなった」ということを知りません。知っているのは私だけです。だから私は、思わず笑ってしまいました。
「100円玉を落としてしまった。きっと誰かに拾われてしまっただろう」と書けば、これはあまりに当たり前でなんということもないわけですが、「100円玉を落としてしまった」と「誰かに拾われた」に横たわる時間をとても短くして、それを目撃したとすれば、なんと「神様になったみたい」な気がしました(対価として100円を支払っているわけですが)。まぁ、私がお目出度いというだけの話なのですが、神様の視点とは案外この程度のものなのかもしれません。もちろん、そうでないことは存じているのですが。
まぁ、ようするに偶然の話なのです。

空を見上げて(その7 「宇宙十牛図」)

観測の終了い伴い、この日マストの収納を行います。マストの収納は進展同様、技術的にたいへんむずかしい作業といわれています。したがってSRTM技術チームは、万が一のことを考慮し、装置の故障などでマストの収納ができないときは、船外活動を行って手動でマストを収納する計画を立てていました。マストが収納できないと、スペースシャトルの貨物室のドアを閉めることができず、このままだと地球に帰還することができなくなってしまうからです。

これは、『宇宙飛行士になるには』(宇宙開発事業団・編著 ペリカン社)からの一節です。
ようするに、NASAの超最先端技術の結晶である「マスト」は、もし上手くスペースシャトルに格納出来なかった場合は、切り離して宇宙に捨ててくるしかないということを言っています。それをするということは、この本の表現を借りれば「実のこどもを崖の上から突き落とす」というくらいのことです。
もし、無事にこれが収納されてしまえばお話にもならないわけですが、当然マストは上手に格納されてくれはしません。

「収納は現在のところ順調です。」ヴォス宇宙飛行士は独特の早口で地上のSRTMチームに状況を報告します。収納開始から一八分後、折りたたまれたマストはキャニスターにすっぽりと収まりました。あとは自動的にキャニスターの先端にある三個の掛けがねが閉まり、収納作業が完了します。が、どうしたことか掛けがねがかかりません。これでは完全に収納できたとはいえず、掛けがねが完全に掛からないということは、キャニスターごと切り離し宇宙に捨ててくる、ということです。

文字通り、大ピンチです。実の子は崖から飛び降りる寸前です。登場人物たちが、英語で大騒ぎしたことは想像に難くありません。もちろん、彼らはプロです。たちどころに、解決策を考え出します。

「まずはマスト伸展させ、キャニスターの内部のモーター駆動に最大の回転力をかけて収納せよ」。

ようするに、「ちょとだけ戻して、思いっきり『ガチャ』ってやってみ」というようにしか私には読めないのですが、なんせすごい頭脳集団はそういう風に指示を出しました。そう書いてあります。
結果として、

だめでした。
掛けがねは掛かりませんでした。

なんだかなぁ。


試みは失敗し、辺りは沈黙に包まれます。

だれも余計なことはしゃべらなくなりました。重苦しい時間です。「やはり切り離すしかないのかな」。ヴォス宇宙飛行士、ゴーリィ宇宙飛行士、毛利さんは口には出しませんでしたが、スペースシャトルの窓からキャニスターを見たときに、ふとそんなことを考えてしまう、そんな重苦しい空気が流れる長い時間でした。

こうなってくると、ミッションコントロールチームのなかでも、最悪のケース、ようするに「崖から子供を突き落とそう」という意見がちらほらと出てきます。
マストを切り離さなければ、シャトルに乗っている乗組員に犠牲が出る可能性があります。宇宙開発で最も優先されるのは、そこにいる宇宙飛行士の安全であることは言うまでもありません。刻一刻と迫るタイムリミットを目前として、諦めムードが漂い始めるのは仕方のないことでしょう。
しかし、そんな矢先に奇跡は起こります。

「マストは長いあいだ宇宙空間という極低温環境にさらされていたため、フレキシビリティー(柔軟性)を失っているのではないかな。」NASAで一〇年以上もこのミッションの準備をし、引退が間近にせまっているチーフエンジニアのエド・カルロはそれまでの経験から直感的に、原因を推察しました。宇宙空間は太陽が当たらない所では、摂氏マイナス一二〇〜一三〇度まで下がります。「やってみようか」。フライトコントローラーのチームキャニスター内のヒーターをオンにすることをブルーチームに指示し、マストを暖めはじめました。

宇宙空間では、太陽が当たっている部分に関しては「とてもとても熱くなり」、当たっていない部分に関しては「とてもとても冷たくなります」。ものが冷たくなれば、堅くなって柔らかさが失われるのはほとんど常識として受け入れることができます。カルロはそこに気が付いて、最先端技術の結晶である「マスト」を、地球への帰還へと導きます。
二時間の「暖め行為」の結果、「マスト」はキャニスターの掛けがねに「カチリ」と掛かります。

ミッションコントローラー室にいたフライトコントローラたちは大きな歓声、拍手とともに総立ちになりました。毛利さんもヴォス宇宙飛行士、ゴーリィ宇宙飛行士と固い握手です。マストの収納作業は成功です。

こういった経緯をたどり、スペースシャトルエンデバーは地球へと無事帰還しました。もちろんマストも無事です。


このちょっとした感動物語の中で、私が最もおもしろいと思った点を指摘しておきます。この話に出てくる登場人物は、全て宇宙開発の最先端に身を置き、その点に関して「スペシャリスト」と呼ばれる人間の集合です。そして、その登場人物の全員が「宇宙はとても寒い」ということを知りながら、それに気が付いた人間が一人しかいなかったということです。


この話からは、いくつも教訓めいたものをいくつも取り出すことが出来ます。
「三人寄れば文殊の知恵」ならそのままですし、「知識は知恵に如かず」でも、「至誠は天に通ず」でも良いでしょう。
「諦めない心」はもちろん大事ですし、「お年寄りの知恵」をおろそかにしてはならないのもこれを読めば瞭然と言えるでしょう。「プロフェッショナル」の努力が失われそうになった後の十年を救ったとも言えそうです。
ふむ、教条的だ。なんだか試されてますね。


たまたま、見知らぬ人に100円を拾われてしまったのでこんなことを書くことになってしまったのですが、これのどこが宇宙の話なんでしょうか。(誰に聞いてるんでしょうか?)
困ったものなのですが、また明日。